「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第9回
イネイト・インテリジェンスを探して(8)

イギリス経験論・ヒューム 1

 「ヒュームのギロチン」で有名なデイヴィッド・ヒュームは、イギリス経験論を完成させた哲学者と言われている。ヒュームの立場は基本的に懐疑主義で、唯一数学のみを論証的に確実な学問と認めているが、本質的にわれわれが知識として確固たるものだと考えている、ほぼすべてを懐疑する。

 これはギリシャの哲学者、セクストス・エンペイリコスの影響を受けていると言われ、例えば「ハチミツは甘い」ということを知っていても、これは単なる主観的判断に過ぎず、「ハチミツ自体」について何かを知っているということにはならない、というような考え方で、これは後にカントに大きな影響を与えることになる。

 前述のロックは二元論者であり、心と外部の存在が各々確実にあるとしていた。イギリス経験論におけるもう一人の立役者であり、「存在することは知覚されることである」と言ったジョージ・バークリーは、純粋に観念論者・独我論者である。自己の身体も外部の存在すべて知覚によって、心の中に存在する観念の束だとし、物質を否定して感覚的な観念の原因は神であるとし、知覚する精神と神のみを不滅の実体と認めた。聖職者であったバークリーは、物質を実体であると認めることが唯物論的無神論に結びつくと考えていた。

 これらに対して無神論者として知られるヒュームは、一切の観念が最も基本的で初歩的な経験である印象の中で生じ、すべての認識はその源泉である印象へと還元されると主張した。「経験に先んじてある自我=生得観念」を認識の中の印象の表れとして、その実在性を決定的に否定した。その意味ではデカルトに喧嘩を売っているようなものである。

 つまり、経験する主体と経験を生じさせる客体それぞれの実在性など、本質的にわかるわけがないと言っているわけで、われわれのそれぞれの知覚はそもそも別々の存在であり、この別々の知覚を統合して認識すること自体は知覚されず、そこで生じる印象はあくまで内的に生じるため、連続して起きる各事象の認識には何ら確実な因果関係はないとした。

 このように当時絶対確実と見なされていた、因果関係の必然性を懐疑するヒュームは、因果関係によって成立するベーコン以降の帰納法を、演繹法と違って論理的なものと見なさなかった。因果関係自体をわれわれの心の習慣に過ぎないものと考え、『人間知性研究』で以下のように述べている。

 「すべての出来事は完全にバラバラに分離(looseandseparate)しているように思える。一つの出来事は別の出来事に続いて起こる。しかし、私たちはそれらの出来事の間にいかなる結びつきも決して見出すことはできない。それらは連接(conjoined)しているように見えるが、結合(connected)しているようには決して見えない」。

 因果関係を成立させるものは「必然性」であり、つまり「でなければならない(must)」という考えにあるが、実際に存在しているものは「である(be)」あるいは「起こる(occur)」でしかなく、そこから「でなければならない(must)」という事態が導き出されることはないとした。これはいわゆる道徳的倫理的判断というものは、印象に由来する感情に起因するから、論理的(理性的)な推論とは関係ない、とする「ヒュームのギロチン」の原型のように思われる。

 因果関係と言われているものは、ある出来事と別の出来事とが連続して起こることを繰り返し体験することにより、「恒常的連接(constantconjunction)」を見出すことによって、そういう印象の積み重ねから観察者の心の中で「因果」が成立しているだけのことであって、この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性でしかなく、過去と未来の出来事の間に確実な必然的関係を保証するものではない。要するに、普段人間がある物事と物事を結びつけて因果関係を考える際、先に起こった事が後の事の原因になっていると観察する「暗黙の経験則=経験からくる習慣」に導かれているに過ぎないとした。

 この「原因」と「結果」と言われるものをつないでいるのは、経験に基づいて未来を推測するという人間の持つ習慣であり、過去の経験が未来の出来事の認識に干渉しているわけである。これは人間以外の動物にも見られる習慣でもある。また、「必然性」も連続して起こった偶然を必然だと錯覚している、つまり、心が印象によってそのように決定しているだけだと考えた。

 20世紀の著名な分析哲学者、バートランド・ラッセルは、この因果関係の必然性を否定したヒュームの懐疑論を克服した哲学は、カントをはじめとしたドイツ観念論も含め、未だに現れていないとの見解を示している。

 因果関係を否定するヒュームによれば、今までそのような法則性があったからといって、今後もその法則性が維持されるということに関しては、何ら論理的に保証されることはない。

 法則性を捉えようとすると、科学では一般に「枚挙的帰納法=複数の事実や事例から導き出される共通点をまとめ、そこから見えてくる根拠を元に結論を導き出す方法」に依存するわけであるが、この枚挙的帰納法の推論を成立させるために必要な大前提を、ヒュームは「自然の斉一性原理」と言った。

 「自然の斉一性原理」とは、科学哲学の世界でもよく用いられる言葉で、「自然界で起きる出来事は全く出鱈目に生起するわけではなく、何らかの秩序・法則があり、同じ条件の元では、同じ現象が繰り返され、似たような条件ならば似た結果(いわゆる近似)が生まれるはずだ」という仮定である。

 この二つは、重大な論理上の問題を抱えている。そもそも「枚挙的帰納法」自体、すべてを網羅しなければ証明が完結できないわけで、結論が真であることを決定的に証明できない。そして「自然の斉一性原理」も、それが本当に正しいかどうか証明不能であり、本来、いつ、どのようにひっくり返るかわからないものであると言える。

 また、「同じ条件の元では、同じ現象が繰り返され、似たような条件ならば似た結果が生まれるはずだ」という前提に基づき、「複数の事例から導き出される共通点をまとめ、そこから見えてくる根拠を元に結論を導き出す」ということは、証明すべき結論を前提として用いる循環論法になってしまう。つまり、「自然の斉一性原理」を前提とした「枚挙的帰納法」というもの自体は、「法則があるということを前提に法則があると言っている」わけで、本質的には何の論証も行われていない。

 では「近似ならば正しいとしてもいいだろう」と考えると、確率論・統計学における基本定理の一つに、ヤコブ・ベルヌーイなどによる大数の法則というものがある。例えば「サイコロを振る回数を限りなく増やせば、出る目の確率は1/6になっていく」というようなもので、帰納法の大原則とも言える。

 そもそも、出目の確率が1/6になっていくためには、サイコロが完全なものでなければならない。しかし、世界中どこを探したところで、重心が完璧に中央にあり、なおかつ立方体のそれぞれの角が厳密に同じであるサイコロなど存在しない。ならば、そもそも出目の確率が完璧に1/6になることなどあり得ず、単なる机上の空論でしかない。

 それでは身も蓋もないので、実際にサイコロを1千万回振って、出目の確率が1/6に近似したとしよう。これに何か意味があるであろうか? 次の1千万1回目の出目を確実に予測できるのか? そもそもカオスではないのか? 結局、出目の確率が1/6などというのは、六面体のどれかの面が上になるという、単なる習慣的に当たり前のことを言っているに過ぎないのではないか。

 難しい言葉を並べ立てているが、言っていることは単純で、結局われわれは、われわれの経験に基づく習慣による予測を、論理的真実だと勝手に決めつけているというわけである。

 そういう意味では、「Evidence-Based Medicine(科学的)根拠に基づいた医療 EBM」などというものは、ヒュームにとっては噴飯ものであろう。EBMは「個々の患者の診療にあたり、最近までの研究から得られたデータの中から信頼できるものを見つけ、それに基づいて理に適った診療を行う」というものであるわけだが、ヒュームから見れば何ら理に適ってなどいない。連続して起こった偶然を必然だと錯覚しているだけであり、結局、心がそれまでの印象によって、そうだと決定しているだけのことである。要するにヒュームにとっては、EBMも治療家の経験に依存する治療も本質的に同じレベルのものでしかない。

 このヒュームの懐疑の破壊力には、底知れないものがある。では、このヒュームの考え方が、カイロプラクティックの考え方にどのような影響を与え得るのかという点については、「グルーのパラドックス」を元に、次回言及してみたいと思う。

参考文献

木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員

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