「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第11回
イネイト・インテリジェンスを探して(10)

イギリス経験論・ヒューム 3

 これは結局、どういう斉一性原理を取り上げるかという問題になる。つまり、グリーン人とグルー人はある時点=時刻 t までエメラルドに対する帰納法的解釈に違いは見られないわけであるが、時刻 t を境に全く異なる解釈になってしまう。そして、その時刻 t が来るまでは、グリーンとグルーの差異は日本語と英語の違い程度しかない。

 また、時刻 t が任意のものであれば、それは1年後でも1000年後でもよいわけである。時刻 t が来るまでは、エメラルド・グリーン仮説もエメラルド・グルー仮説も、いずれ両立不可能な予測をしているにも関わらず、ともに正しい。

 グリーン人である我々にとって、グルー人の言っていることは時刻 t を境に奇妙なものになるが、グルーという概念が経験的に当然であるグルー人にとっては、我々と同じだけグリーン人である我々の言っていることは奇妙になるのだ。そして、その奇妙さは本質的に時刻 t 以前から存在しているはずである。

 斉一性原理を前提とする帰納法の手続きにおいて、両者はともになんの間違いも犯していない。問題となるのは、どのような自然の斉一性を想定するかという選択であり、それは結局、我々の経験的習慣に依存している。どのような自然の斉一性も想定できるのであれば、事実上あらゆる予測が斉一性原理と両立してしまうわけで、そこに帰納法におけるパラドックスがあるというわけであろう。

 そのため、この考え方においては、無意識的な色概念の投影可能性を絶対的に定義することや、知覚に依存する投影可能な言葉だけが帰納法に使えるという根拠を提示することが、非常に困難だということが明示されてしまう。
 

 これは「ウィトゲンシュタインのパラドックス」にも、似ている。ウィトゲンシュタインのパラドックスとは「規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方も規則と一致させることができるであろうから」(ウィトゲンシュタイン 哲学探究 201節)というものである。

 規則というものは、事例を無限回なめて成立するものではない。結局、人である限り有限の事例を持って無限に適用できる規則だと思い込んでいるに過ぎない。同じ行為をしているもの同士も、同じ規則に従っているかどうかはわからない。

 ソール・クリプキの「クワス算」も同様で、ある範囲で同じ答えであったとしても、すべてを計算していない以上、他者が同じ規則に則っていない可能性はいくらでもあることを示唆している。そこからクリプキは、言語の意味というものが共通しているということを否定する。そのため、言語でのコミュニケーションというものは、つまるところ、ある種の盲目的な信頼であり、彼はそれを「暗闇への跳躍」と言った。

 このウィトゲンシュタインの言う「規則」というものを「法則」に、「行為」を「現象」に置き換えればわかりやすい。「法則は現象のあり方を決定できない。なぜなら、いかなる現象のあり方も法則と一致させることができるであろうから」。これが帰納法の最大の問題点であろう。

 天動説から地動説への転換のように、斉一性原理の転換というものは、我々の信念からなる体系の転換であり、トマス・クーンの「パラダイム・シフト」にもつながるように思われる。

 そして、グッドマンはその後の唯識的な「世界制作論」で、論理的に両立し得ないが「正しい」複数のヴァージョンがあり得るという主張をしている。要するに、複数の世界真理が同時に成立し得るということであり、例えば、複数の人体に対する真理があるとすれば、現代医学的な説明ができなければ正しく人体を理解することはできないという考えに、なんら正当性はないということでもある。

 これは同じ事物に対して論理的に、あるいは規則的に両立しない二つの予測可能性が提示されたとしても、一方によって他方を否定することはできないことを示唆している。
 

 現代医学の人体概念に対して、カイロプラクティックは異なる人体概念を持っている。つまり、人体に対する経験からなる異なる言語習慣がある。長々とわかりにくい説明をしてきたが、たどり着きたいのはここである。

 カイロプラクティックの人体概念を、根拠のない信仰のようなものではなく、医学と同程度の論理的な説明を可能にするために、現代医学の言葉でカイロプラクティックの人体概念を定義し、説明することは愚かなことのように思われる。

 それでは、カイロプラクティックが羊頭狗肉と化してしまうであろう。そうではなく、換骨奪胎しなければならない。そのためには最低限、我々の言語で「イネイト・インテリジェンス」を定義しなければならないのである。

 そして、その定義は現代医学の人体概念と対立するものではなく、現代医学とわかり合えないとしても、それを包含するような定義が望ましい。「イネイト・インテリジェンス」を定義するためには、「イネイト・インテリジェンス」がどのようなものかわからなければならない。

 多くのカイロプラクターが「イネイト・インテリジェンス」を「自然治癒力」と言っていたりするが、それは「イネイト・インテリジェンス」の一側面でしかない。では、「イネイト・インテリジェンス」とは、どんなものであるのか? もう少し、西洋哲学の観点から見ていきたいと思う。
 

 余談ではあるが、こういう経験論的哲学の関係か、イギリスでは医学でも基礎研究より臨床研究の方が進んでいるようである。端的にはヒュームに見られるように、いわゆる認識の形而上学的客観性を否定するわけで、要するに「経験不可能な事柄の真理を考えることはできない」という考え方である(これがイギリスでのサブラクセーション否定につながっていったと思われる)。

 ここから、やがて論理実証主義やプラグマティズムに見られるように、「実用的なもの、現実に有効なものでなければ意味はない」という考え方が生まれて、それが操作主義・統計検定・EBMなどにつながる。また、今まで見てきた大陸合理論・イギリス経験論は、ともに中世スコラ哲学的な権威主義、即ち「アリストテレスはこう言っている」とか、「聖書にはこう書いてある」とかいう考え方に対する批判として現われた。

 スコラ哲学の時代は一般に、「神は、聖書と自然という二つの書物をお書きになった」と考えられていたわけであるが、近代哲学では「自然」の方により重点を置いた考察がなされていったと言える。その意味では、カイロプラクティックも先人の言っていることを鵜呑みにするのではなく、本来先人が見ていた人体そのものにより重点を置いた考察をしていくべきであろう。

 さて、この生得観念をめぐる論争は一応カントの批判哲学によって止揚された。つまり、融合して一段高い考え方を生み出したというのが哲学史の常識である。

 次回は、そのカントの哲学を考察してみたいと思う。

参考文献

木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員

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