「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第14回
イネイト・インテリジェンスを探して(13)

ドイツ観念論・ショーペンハウアー

 前回述べたように「自由意志」が「物自体」であれば、我々の認識する自由意志は既に「自由意志」ではない。ここで言っているのは、前述したカントの言う「自由意志」であり、ラテン語の「リベルム・アルビトリウム(Liberum Arbitrium)」のことである。

 このリベルム・アルビトリウムは、古代ギリシャから問題にされてきており、必ずしも人間の意志を指すとは限らない。むしろ自然や世界や宇宙に潜む力の発動を「自由意志」と見なした。カイロプラクティック的に言えば、「ユニバーサル・インテリジェンス」である。

 そしてカントは、「物自体」と「自由意志」を合体させた。それをさらに進めて、「意志」が「物自体」であるとしたのが、アルトゥール・ショーペンハウアーである。これはそれまで物性が主であり、その有様は、物性の従属でしかない、と考えていた哲学の大転換であり、言わば絶対空間内におけるニュートンの万有引力に対して、相対時空における重力の有様を説いたところの、アインシュタイン的転回とも言えるかもしれない。

 つまり、仮に最小単位の物質が組み上がって、何らかの物になるというとき、最小単位の物質は実在ではなく、その組み上げられた「意志」こそが、真の存在だと言っているわけである。雑に言えば、遺伝子を構成する分子や原子には意味はなく、遺伝子にそのような情報を与えているものこそが、真の存在だというような感じである。
 

 ショーペンハウアーは、裕福な商人であった彼の父親の監督の下、幼い頃より優秀な商人になるための英才教育を受けていた。しかし17歳のときに突然その父親が転落死したことになっているが、どうやら自殺だったらしい。

 思うに、このとき彼は「世の無常」を強く感じたのではないだろうか。そのためなのか、20代の頃に古代インド哲学・ウパニシャッド、仏教などの影響を強く受け、その後の哲学展開が決定づけられたとされている。

 その意味では、ショーペンハウアーの考え方は日本人には馴染みやすいのかもしれない。カント直系を自任する彼は、世界というものを自己が生み出す表象、つまりはイメージ・現象と見なして、その根底に働くものとして「生きんとする盲目的な意志」を説いた。

 この「盲目なる生存意志」とは、言わば衝動そのものである。万物の根源であり、何物もそれを制御することができない。ライプニッツのモナドの欲求にも似ているが、先に述べた通り、「盲目なる生存意志」は「物自体」の属性ではない。どちらかと言えば、「物自体」の方が「盲目なる生存意志」の属性と言える。

 世界の根底にはあらゆる存在の「盲目なる生存意志」が働いていて、この生存意志は常に他の意志によって阻まれ、絶えず満たされない状態にあるとする。仏教的に言えば、「業・カルマ」あるいは「渇愛・タンハー」のようなものである。

 ショーペンハウアーは世界というものは、人を含めて万物の意志の争いの場であり、それぞれがもたらす表象の現れに過ぎないと考えた。平たく言えば、世界とは海から生まれる泡沫(うたかた)のようなものである。泡沫は海そのものを認識できない、というようなものであろう。仏教的に言えば、「因縁果報」がめぐるかのようでもある。

 このような「盲目なる生存意志」は、カントの「物自体」と同じものであるから、我々はそれをそのままに認識する術を持たない。要するに、「物自体」と同様に「盲目なる生存意志」は、我々の思うような理性など有しているかどうかもわからない。

 我々は「物自体」を知覚を通してしか認識できないわけであるが、「盲目なる生存意志」も同様である。ただ我々自身も、外界の「物自体」のすべても同質だと考えたとき、ショーペンハウアー の「盲目なる生存意志」は物質的なものを超越して、言わば「一つの作動」と見なすことができる。これは単に、我々に認識できない生気論的な世界があるということではなく、認識できない本当の世界の有様を「意志と表象としての世界」として提示したのだと思う。
 

 しかしこのような、自分自身(=人の持つ合理性)ではどうしようもない、というような考え方は、西洋ではペシミズム、厭世主義・悲観主義と言われたりした。それがやがてニーチェなどに強く現れてきて、例えば「神は死んだ」というようなことになる。

 「神は死んだ」とは、要するに真理や善なるものや正義などというものは、支配者が大衆を都合良く、おとなしくさせるための道具でしかなく、それが既に露見してしまっているということである。現在では「科学」がその役目を担っているが、未だに道具として機能している。大衆は科学的根拠があると言われれば、無批判に信じてしまうのが現状である。

 このニーチェもまた、仏教への傾倒が著しく、「永劫回帰」や「超人」「力への意志」は、「六道輪廻」や「仏陀」「発菩提心」に対応するようにさえ思われる。時代的には第一次大戦や恐慌、第二次大戦などの社会的不安があり、ダーウィンの「種の起源」に見られるような科学の進歩とともに、聖書の記述が蒙昧なものであることを知らしめることになって、精神的支柱が失われてしまったような状態になっていった。

 そのためか、キルケゴールを先駆者とした実存主義が生まれ、先のニーチェやフッサールの現象学などの影響も受け、やがてマルクス主義者のサルトルや、ナチスの一員であったハイデッガーなどに見られるように、イデオロギーに関わっていくようになる。そして、その反動のように構造主義、ポスト構造主義と言われる思想が生まれていき、また「科学」が「神」に取って代わることにより、プラグマティニズムや論理実証主義に発展していく。
 

 さて話を戻すと、ショーペンハウアー本人は「仏陀、エックハルト(エックハルトは神と合一した自己をも捨てた究極の無を目指しており、仏教でいう無我に近い)、そしてこの私は、本質的には同じことを教えている」と述べている。

 ショーペンハウアーの「盲目なる生存意志」は心理学などでも、リビドーだの、イドだの、エロス・タナトスだの、アニマ・アニムスだのと、さまざまな解釈をされた。しかし、これら言語化、抽象化された概念は、彼の言う「盲目なる生存意志」の一側面しか表さない。

 生物学におけるこのような片鱗は、クリントン・リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」などに見ることができる。この「利己的」とは、「自己の成功率(生存と繁殖率)を他者よりも高めること」と定義される。「盲目なる生存意志」と異なる点は、進化により生存、あるいは繁殖の可能性が高まるという目的性を持つ点である。ただこれは、生物学者が外部観察的に遺伝子を見ているから、そのように見えるだけであって、遺伝子自体は「自己の成功率(生存と繁殖率)を他者よりも高めること」など考えていないであろう。

 物理学でも同様で、スピノザのところで述べたように、不確定性原理に基づく量子力学について考えれば、物体の実在を物体の持つ位置や速度の値で示されると定義した場合、ミクロの世界の物体は、我々が観測するまでは位置や速度の値自体を持っていない。つまり、ミクロの世界での物体には実在性がないと言え、最小単位の物体における実在というものが、論理的に根底から否定されてしまう。このため現状の物理学では、最基底での物体の実在性に関しては言及できず、ミクロとマクロを結ぶことができていない。

 これはすべての自然科学に言えることでもある。なにしろ、カントの言うように「物自体」を我々が認識できないとすれば、その本質を外部観察されたデータなどに基づいて、本質を語ろうとすることは噴飯ものでしかない。まさに「群盲、象を撫でる」がごとくである。

 医学においては、それ以前の問題で、例えば人体の解剖やバイオメカニクスなどは、対象をありのままに表すことのできない分野である。個人差の激しい筋の形状や付着部位、骨の形態などをひとくくりに説明しても、個人には当てはまらない。同様に人体の運動も千差万別である。これを一般化して法則を取り出すのは個性の否定に等しい。

 「盲目なる生存意志」においては、生存の可能性を高めるという目的性もなく、ただ生きんとしているだけである。では、「盲目なる生存意志」とは何かと言えば、そのものがそのものとしてあろうとすることであると思われる。

 常にすべてが崩壊していく世界の中で、自分も崩壊していくわけであるが、それに対して生存するための秩序とか、調和とか、安定とかを何とか維持しようという衝動というか、ベクトルというか、力のようなものを指していると思う。

 私はこれが「イネイト・インテリジェンスの本体」ではないかと思うのである。イネイト・インテリジェンスとは、単なる自然治癒力ではなく、もっと根元的なものだと思う。変転する世界において、そのものがそのものとしてあろうとするためには、そのもの自体の変質変化を意味する。仏教で言えば、「無常・無我」である。
 

 「盲目なる生存意志」は、常に周りからさまざまな影響を受けているため、生存意志としてそれに対抗しなければならない。しかし、盲目なるゆえに無目的である。盲目なるゆえに、他者からの影響を合理的に排除する先見性を持っているわけもない。ただ生存しようとするだけである。

 もっと言えば自己言及的であり、自己目的化している。ゆえに自己矛盾が生じる可能性は否定できない。この場合、「盲目なる生存意志」が完全に完璧な作動をすればするほど、自己矛盾が生まれる可能性が排除できなくなる。なぜなら、生きんとする意志が強ければ強いほど、何が生きるのかという点が曖昧になる。

 人体は何物でもない細胞=胚から発生する。それが常に100%正しいイネイト・インテリジェンスの力であるなら、なぜ先天異常が生じるのか、それはイネイト・インテリジェンスの働きが盲目的だからではないのか、「盲目的な生存意志」だからではないのか。

 それは人にとって、自身を守るための免疫機構が、自身を攻撃する自己免疫疾患のようなものさえも生じる両刃の剣のようなものでもある。生きるという衝動のために、自分で自分を破壊することも厭わなくなってしまう。この場合、「サブラクセーション」は「イネイト・インテリジェンス」によって生み出される。

 では、「サブラクセーション」とは何か?

 一つの考え方として、「すべてを治す力であるイネイト・インテリジェンスの方向性を歪めてしまうものが、サブラクセーションであり、何らかの外力により生じる。イネイト・インテリジェンスは常に十全に発動しているため、その100%の働きを妨げず、方向性のみを逸らしてしまうサブラクセーションの存在を、イネイト・インテリジェンスは把握できない」というものがある。

 また別の考え方として、「イネイト・インテリジェンスの作動自体が、サブラクセーションを生じさせる」というものもある。しかし、「イネイト・インテリジェンス」が「盲目なる生存意志」であると考えれば、これらは別々の考え方ではない。何らかの外力が「盲目なる生存意志」に加わったとしても、自分が自分であるという作動が変更されるのではなく、その作動ゆえに自己免疫のように、自分で自分を取り違えてしまうに過ぎない。

 さらに言えば、「イネイト・インテリジェンス」がカントの言う「物自体」と同質であれば、我々は「イネイト・インテリジェンス」を知ることができない。そのため、知覚でしか認知できない表面的な不調和を見ることしかできない。

 徒手療法において、医科学的に提示された身体は表象でしかない。言い換えれば幻影である。幻影に対して盲打ちをしても、良くなるかどうかは運次第と言える。的確な治療を施すためには、「物自体」である自己の身心を持って、「物自体」である患者の身体をアジャストメントしなければならないと考えられる。

 「物自体」の身体は、おそらく「自他不二」によって接近され得る。このような接近方法は、我々に真なる身体を垣間見せてくれる。つまり人体の本体を知るためには、修行が必要である。道元であれば、「修證一等」あり「身心脱落」であろう。武術で言えば合気のようなものなのかもしれない。それはまた「直観」と言えるのかもしれない。
 

 しかしながら、知り得ぬという点において「イネイト・インテリジェンス」は、我々にとって「怪物」である。ニーチェは「善悪の彼岸 146節」で、「怪物と戦う者は、自らも怪物にならぬよう心せねばならない。深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」と言っているが、これはカイロプラクターにも当てはまる。

 戦わんとするあまりに、急進的、原理主義的、あるいは神秘主義的になり過ぎて、カイロプラクター自身が訳のわからない者=怪物になってしまうことは大きな問題である。一方で表象しか見ない科学的な認識では、「イネイト・インテリジェンス」には永遠に近づけない。その意味では「イネイト・インテリジェンス」を語るためには、仏教で言う中道こそ、まさに正しい道であろう。カイロプラクターを名乗るのであれば、すべからく「中道」を歩まなければならないのだ。

 すべてが光に包まれた世界では、完全なる闇と同様に何も見えない。光と闇により色彩が生まれると言ったのはゲーテだったと思う。そう言えば、ショーペンハウアーはゲーテの弟子でもあった。
 

 さて、カイロプラクティックは基本的に機械論である。そうでなければ、接触によるアジャストは成立しない。結局アジャストメントは、映りの悪いテレビを叩いて直すようなもののように見える。しかし、単なる機械論と言えるのか?

 20世紀にこの機械論をも包含する大きな考え方が生まれた。それが「一般システム論」である。次回からの新章では、現代における新しい考え方を踏まえて「イネイト・インテリジェンス」を考えてみたい。
 

参考文献

木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員

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