「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第7回
イネイト・インテリジェンスを探して(6)

イギリス経験論・ベーコン

 先に述べたように大陸合理論に対し、イギリス経験論というものが対立してきた。この論は生得観念を否定し、人間のすべての知識はわれわれの経験に由来するとする、哲学上ひいては科学や心理学上の立場でもある。要するに、観念を含めて知識の有効性というものを経験と言う裏づけから判断する立場で、フランシス・ベーコンに始まると言われている。

 彼はイギリスの哲学者・政治家で、デカルトとともに近世哲学の祖とも言われており、デカルトより35歳年上である。その人生は波乱万丈とも言えるものであり、哲学なんかをしている暇がよくあったものだと思う。近代科学の祖と言えば、誰しもデカルトを思い浮かべるが、ベーコンこそ、「実験・観察といった自然科学的手法を理論的基礎とした帰納法」を確立した、その人であり、デカルト以上に近代自然科学の礎を築いたと言えると思う。

 アリストテレスの「オルガノン」に始まる、絶対的な真理を前提とした「演繹法」とは、端的にはいわゆる三段論法で、前提(普遍命題、公理・公準)から結論(個別命題、定理)を論理的に導き出すもので、平たく言えば演繹法での結論とは前提の言い換えに過ぎない。そのため、本質的に新しい知見が発見される可能性はほぼないと言える。さらに演繹法の場合、前提が正しければ結論は常に正しいが、前提が間違っていれば、その後のすべての理論展開は間違いとなる。

 しかし「帰納法」ではそういう極端なミスがない。それどころか間違いがあれば修正して真理に近づける。帰納法もまたアリストテレスのトピカなどで論じられた方法で、前提(個別命題)から結論(普遍命題)を導くもので、本質的に前提と結論との関係には必然性はなく、確率的な優位性があるだけだが、前提と結論を結びつける確率的な飛躍によって知識を拡大する可能性がある。

 ベーコンはそこに目をつけ、観察と実験によるデータ=個別的経験をより多く集め蓄積すれば、理論=仮説がより確かなものになり、より確実な真理に至れると考えた。ベーコンの座右の銘である「プルス・ウルトラ」というのは漫画でも有名になったが、「もっと向こうに」という意味であり、このような信念の表れでもある。

 ベーコンは「海のほか何も見えないときに、陸地がないと考えるのは、決して優れた探検家ではない」とも言っているが、これはすぐに結果が出なくても諦めてはいけないということであり、ベーコンのチャレンジ精神を表した言葉でもあると思う。

 またベーコンの名言に「知(知識)は力なり」という有名な言葉があるが、要するに「経験(=集団的な実験と客観的な観察)を帰納法で整理分析することで得られる知識の蓄積」を繰り返すことにより、それらに共通した法則を発見し、その自然の法則を利用することで自然を支配する力を得て、人間はより豊かな生活を享受できると考えたわけである。

 さらにベーコンは「原因を知らなければ、結果を生み出すこともできない」と主著の「ノヴム・オルガヌム=新しいオルガノン」の中で言っているが、自然に従うことで自然界の因果関係を知識として蓄え、自然の対する知見を集めていくためには、帰納法が最も妥当な思考方法であると考えたわけである。

 このような考え方を元に、アリストテレスとそれに立脚するスコラ哲学を不毛であると批判したわけであるが、それは即ち絶対的真理としての「生得観念」の否定に繋がるわけである。

 

 ベーコンにおいて刮目すべき点は、「イドラ」という考え方を帰納法に導入したことである。イドラとはラテン語で「偶像」を意味し、英語の「アイドル」の語源でもあるが、要するに「偏見・先入観=バイアス」のことである。ベーコンは、実験・観察には常に誤解や先入観、あるいは偏見がつきまとうことがあると指摘した。そして、人間が誤りを犯しやすい要因を分析し、これらのイドラ(偏見)を克服することによって、人間は有益な真理を手にすることができるとして、予め錯誤を犯さないような考え方を確立した。これがイドラ論である。「ノヴム・オルガヌム」の中で、次のような4つのイドラについて言及している。

 

・種族のイドラ(自然性質によるイドラ)

 「その根拠を人間性そのものに、人間という種族そのものが持っている」というイドラで、人類一般に共通している偏見である。これは人間の感覚における錯覚や人間の本性に基づく偏見で、端的には水平線・地平線上の太陽が大きく見えることや、暗い場所ではそのときの感情などで何かを別のものに見誤ること、また自然界にあるものを、ことさら擬人化して捉えてしまう誤りなどが挙げられる。

 

・洞窟のイドラ(個人経験によるイドラ)

 「各人に固有の特殊な本性によることもあり、自分の受けた教育と他人との交わりによることもある」というイドラで、これは各個人が持つ誤りのことで、狭い洞窟の中から世界を見て、それがすべてだと信じるかのようなことである。要するに、個人特有の性癖・経験や社会的な慣習・環境・教育などによって生じる偏見で、いわゆる「井の中の蛙」のような状態のことを指す。

 

・劇場のイドラ(権威によるイドラ)

 「哲学のさまざまな学説から、そしてまた証明の間違った法則から人々の心に入ってきた」イドラで、思想家や学者、または教会などの権威や伝統が語ることに惑わされて事実を見誤ってしまうことを指す。思想や学説によって生じた誤りや、権威・伝統を無批判に盲目的に従うことによって生じる偏見で、権威に満ちた学説の開陳や、伝統を重んじる教会での言明を劇場での演技になぞらえて、それを盲信することによって生じる誤りを言う。

 

・市場のイドラ(伝聞によるイドラ)

 「人類相互の接触と交際」から生じるイドラで、主に言語を使用すること=文章や会話などによって思考が影響を受けて生じる偏見である。例えば、市場で怪文書や噂などのデマが流れ、それに惑わされることによって生じる誤りのように、社会生活や他者との交わりから生じ、言葉の不正確あるいは不適当な規定や使用によって引き起こされる偏見を言い、風説の流布など今風に言えばSNSに書いてあることなどを根拠もなく正しいと思うようなことである。

 

 このようにベーコンが帰納法の弱点を看破しており、それに対する対策も考えていた点は、われわれも見習うべきものであろう。

 ベーコンが提示したある種、盲目的な絶対的真理(=生得観念)への批判は、そのままイネイト・インテリジェンスにも適応される。おそらく、現在イネイト・インテリジェンスが否定され無視される根源は、このベーコンの帰納法的思考に由来していると思われる。要するに、イネイト・インテリジェンス自体がイドラ=偶像だということであろう。上記で言えば、「劇場のイドラ」に当たるかもしれない。

 そもそも、イネイト・インテリジェンスがどこから来たのか?

 なぜ、その存在が自明のごとく確実なものと言えるのか?

 おそらく、人は生きている間、個人差はあるが自分で病気や身体の不具合を治す力があるという普遍的な事実から、イネイト・インテリジェンスという概念を導き出したのであろう。

 われわれにとって自明で絶対的な真理であっても、それが真に普遍なものであるという客観的な証明はできるとは限らない。よく言われる、「なぜイネイト・インテリジェンスは、サブラクセーションを治せないのか?」という問題提起がその際たるものであろう。

 客観的に十分な根拠を持って証明できない絶対的な真理は「ドグマ=独断」とされ、無批判な宗教的教条による信念と同質であるとして、学問的には発展性が全くないため、侮蔑的な意味を持つ。その意味では、ベーコンの思考の根源にあるのはドグマの排除であろう。

 カイロプラクティックもイネイト・インテリジェンス自体を絶対的な真理とした演繹的な解釈ではなく、観察と実験(あるいは検査とアジャスト)による経験の積み重ねで、帰納法的にイネイト・インテリジェンスに到達することができるかどうかを問われていると言っても良いのではないだろうか。

 そのような取り組みは、カイロプラクティックに関する論文などで行われるわけであるが、現状では結局イネイト・インテリジェンスの定義にまで至らない解釈がなされているように思う。しかしながら、後で説明するヒュームの懐疑主義のように、「科学的証明なしに、ドグマに基づいて物事を説明することは間違いであるという科学的信念自体は、ドグマではないのか?」という指摘も、当然のごとく成される。

 ただ、一般にこの考え方は科学者受けしない。懐疑主義に陥った場合、疑うことで前に進めず進歩というものがなくなってしまうではないか、ということになり、科学の存在理由が根底から否定され、同時に文明の進歩もなくなってしまうので、意味のない考え方とされてしまう。このような考え方がアメリカでのプラグマティニズム(実用主義)につながっていき、逆の意味でカイロプラクティックがアメリカで認められた要因にもなったと思う。

 では、どういう形で進歩を目指すのかと言えば、英語の諺に 「例外のない法則はない (There is no rule without exception.)」という表現がある。経験則の蓄積を重んじ、全く例外のない普遍的な一般原理というものに、心の隅で胡散臭さを感じるイギリス経験主義によって成立した諺であるらしい。

 法則(英:law)と規則(英:rule)の区別も問題であるが、命題を「法則」と呼んでしまうと、人間はついついその命題の妥当性を、絶対視したり過信しすぎる傾向があるため、それを戒めるための言葉である。同様の言い回しに 「法則を立証する例外 (Exception that proves the rule)」という言葉もあり、要するにイギリス経験主義では、例外が存在することでかえってその法則は説得力を持つということになるらしい。

 ただし「例外のない規則はない」は、ラテン語でもドイツ語でも言うので、イギリス特有かは疑問であり、また 「例外は規則を証明する」という諺ならば、ドイツ語にもフランス語にもあり、これが「例外があるのは規則のある証拠」と翻訳されがちなのは、後世に誤解された意味であるということであるが、これらの考え方はヨーロッパにおける基本的な考え方なのかもしれない。

 このように帰納法の弱点・・つまり、カラスは黒いという命題を証明するために、より多くのカラスを観察していって、すべて黒いカラスであったとして、もし1羽でも白いカラスがいた場合、「カラスは黒いという命題」は棄却されるわけであるが、「例外のない法則はない」としていれば、1羽くらい白いカラスがいても、おおよそのカラスは黒いわけであるから、「カラスは黒いという命題」は棄却されないどころか、「結局、カラスは黒いよね」ということで、かえって「カラスは黒い」ということに説得力が出るという寸法である。

 こういうところから、科学哲学でいうポパーの「反証可能性」というものが科学である根拠となったりするわけであろう。現在でも、科学と疑似科学の線引きに「反証可能性」を使う向きがあるが、これは「反証できないものは科学ではない」ということで、例えば「神は存在する」という命題は、証明も反証もできないから科学ではないというようなことであるが、これには少し疑問があり、本質的には証明可能であるものでなければ、そもそも反証できないわけで、実効力のある反証可能性を持っていないということになる。

 例えば、「地球は丸くなく、世界の果ては滝のようになっている」という仮説は、長距離の航海が可能な船を造ることができない時代には、理論上は反証可能性を有していたが、実際に反証を行うことは技術的に不可能であった。つまり、実効力のある反証可能性を持っていないということである。

 そして、長距離の航海ができる船を造ることが可能になった時点で、反証を行うことが技術的に可能となり、はじめて実効力のある反証可能性を持つことができたわけである。やがてマゼランの部下(もしくは鄭和)が世界一周をした時点で、この仮説は実際に反証されてしまい、一般に科学的には正しくないと信じられるようになった。

 これらを「理論反証可能性」と「実効反証可能性」という名称をつけると、対象をある程度定義できれば、おおよそすべての命題はその定義から外れるか否かという「理論反証可能性」を持つ。ある程度の定義というのは、確実な定義である必要はないということで、実際存在が確実である「心・精神」、また「痛み」などの定義も明確に定義されていない。

 同様に神にしろ、イネイト・インテリジェンスにしろ、一旦ある程度定義できれば理論上の反証可能性を持つ。そして、それを調べるに足る技術が得られたときに、実効反証可能性が生じ、さらに実際に反証されるそのときまでは、肯定も否定もできない仮説として、一つの技術体系における特有の概念ということになる。

 ただ反証可能性という点では、「進化論は反証可能性を持つのか?」という疑問が出たりもする。要するに「反証可能性がある」ということは、「科学は常に間違っているということを前提としている」ということに他ならない。つまり、科学とは正しいことを積み重ねて真理に到達するのではなく、間違いがわかることで進歩しているということになる。間違いがわかるということで、何かが正しいという保証にはならないわけであるから。

参考文献
  • https://ja.wikipedia.org/wiki/イドラ
  • https://www.weblio.jp/wkpja/content/法則
  • 安藤聡 『英国庭園を読む:庭をめぐる文学と文化史』彩流社、2011年、281-283頁。
  • ベンジャミン・リー・ウォーフ「科学と言語学」、池上嘉彦訳『文化人類学と言語学』弘文堂、1970年
  • 柴田光蔵『法律ラテン語格言辞典』玄文社、1985年、68頁。
  • 栗田賢三・古在由重編『岩波哲学小辞典』「規則」、岩波書店、1979年。

木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員

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