「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第5回
イネイト・インテリジェンスを探して (4)

大陸合理論・ライプニッツ①

ライプニッツは次に出てくるイギリス経験論への反論として、モナドを基礎とした多元論、いわゆるモナドロジー(単子論)とそれによる予定調和を唱えた。モナドを説明する前に、その基礎概念とも言える微小表象について説明しておきたい。

後述するがイギリス経験論では、生得観念に対する否定として、人間が知覚できないものは存在していると言えるのかという問題提起がある。それに対する回答の一つとして、ライプニッツは微小表象と言うものを提示した。これは端的には無意識のことである。集合的無意識やシンクロニシティの元ネタとも言える。

例えば吹雪の中にいて、その雪の一片、一片を人間は全く認識していないかと言えば、そうではなく意識に上らなくても、そうした限りなく細かいそれぞれの雪についての、微細な認識が心の中に存在していて、それらが意識の力によって一つにまとめられて、心の中の明確な認識や観念が形づくられている、と考えられることになる。

これを微小表象と言い、平たく言えば無意識レベルの認識であるが、これには際限がなく、時間的にも空間的にも無限の果てまで、そして神にまで及んでいるとライプニッツは考える。

このようにライプニッツの認識論では、対象を明確に認識している意識的表象の中に、明確な認識の材料とも言える、意識されない細かな認識である微小表象が存在し、これに基づくと人間の心には事物を知覚する以前に、そもそも世界あるいは宇宙における、すべての存在に関する微小表象を生まれながらに持っていて、生得観念の存在はこの無意識レベルにおいて、認めることができるというように捉えられることになる。

そして、それを担っているものが「モナド」という究極の最小実体概念になるわけである。モナドに関する説明は次回に行いたいと思うが、簡単に説明しておくとモナド(monade、単子)というのはギリシャ語のモノ(1、単一)が語源であり、ライプニッツはアリストテレスのエンテレケイア(=完成された現実=終極状態にあることを意味する)と同義であると言っている。

アリストテレスの哲学=自然学では、事物が生成されるとき、可能性を持つ状態をデュナミスと言い、その可能性が現実に実現する形で発展することをエネルゲイアと言うが、この事物の生成発展の目的が完全に達成された状態をエンテレケイアと言う。例えば生物で言えば、受精卵がデュナミスで、誕生し成体となった状態がエネルゲイア、そして、その成体が生物としての役目を達成した状態(生殖など)をエンテレケイアというような感じである。

モナドがなぜ終極状態にあるかと言えば、われわれの心も、あるいは自然の一切も、既に無限の可能性を持っており、無限の可能性があると言うことは、本質的にそのものの中に元々すべてが内包され、完成されているからだというような感じである。既にこの終極状態にあるということは、それ以上発展する必要のない完成された状態にある。つまりは既にすべてがモナドの中にあり、無限の可能性を持つということになる。これはイネイト·インテリジェンスが100%であるということと同義である。

要するに、エンテレケイアであるということは、神性(=魂)を持っているということになる。その意味では、ライプニッツはデカルトと違って動物のみならず、すべてのものに神性を認めている。これはスピノザに等しくなるが、動物などの魂と普遍性を認識する理知的な人間の魂とでは、根元的に異なるとする。念のために言っておくが、このような考え方になるのは西洋における「神」の概念が、常に基盤になっているからである。

ライプニッツはデカルトより50歳年下であり、デカルトが死ぬ4年前に生まれているが、デカルト以降の心身問題に関して、ライプニッツは「いま仮に、考えたり感じたり表象したりできる仕組みを持った機械があるとして···いろいろな部品がお互いに動かし合っていることだけで、表象を説明するに足りるものは決して見出せない···」と言っている。

ライプニッツの場合、機械とは単なる歯車やネジやバネの組み合わせではない。「自然の機械は真に無数の器官を有し、あらゆる偶有事にも万全の体制を取り得るので、破壊されない···。その最も小さな部分に至るまで、やはり機械となっている」と言っている。

この自然の機械という概念は、人工的な機械とは一線を画している。最も小さな部分が部品ではなく機械であるということは、要するに有機的な構成体である。これはかなり現代的な考え方で、人体を構成する最も小さな部分を細胞としても、細胞もまた自然の機械であり、細胞を構成する最基底の粒子もまた、有機的な構成体である自然の機械だということになり、これがモナドだと考えても良いと思う。

ライプニッツはこのように微小な状態の様々な表象を捉えていくことになるが、それはライプニッツが微積分法を体系化し、厳密な学問として確立させたこととに深く関係するようである。

※表象とは、哲学的には外界にある対象を知覚することによって得られる内的な「知覚表象」。外界の対象がいま存在しなくても、知覚対象の記憶に保ち、それが再び心の内に表れる「記憶表象」。また、何らかの思考作用によって心の内に現れた「想像表象」などを言う···(われわれの感覚では「イメージ」とほぼ同義である)。

この微小表象を認識論的に考えた場合、ライプニッツは「運動は決して静止から一挙に生じることはない」と言い、静止とは「無限に小さな速さ」を表す微小表象であるとする。また、ある種の雑音はいつの間にか意識されなくなるが、それは「慣れ=適応」によって一時的に知覚の閾値が変動するためであり、何かの弾みでその雑音に注意を向けたとき、その微小表象から「われわれはそれを想起し、われわれがそれについていましがた知覚していたことを認識する」としている。

さらにライプニッツは、「曲の全体を思い出す」のに「出だし」があれば十分であると言っており、心の中には「先行する状態の痕跡」と言えるものがあって、これは一種の記憶のカケラのようなもの=微小表象で、この記憶のカケラは意識の下に蓄えられており、それが意識上で一気に構築·再生されるとする。

もう一つ、「何かはよくわからないもの=曰く言い難いもの」に関して、これは快·不快に関係するが、例えば心地よい音楽などもある種の振動数、あるいは周波数の調和であれば、この調和は意識されない振動数=微小表象の計算、あるいは合理性に基づくとし、不快に感じる音なども同様に、ある種の意識されない振動数の不調和であると感じるからかもしれない。

このように全く意識されない表象というものは、無限に小さな表象とみなされなくてはならないとするわけである。身体における認識という観点で見れば、身体内ではこの微小な表象が様々な形で駆け巡ることでその営みをなしているとも言える。

微小表象を実践論的に考えた場合、「不安=意識されない微小な苦痛=微小表象」により、「真の苦痛」を回避しているとする。例えば食欲という漠然とした「不安」に駆られて食事を取り、真の苦痛である飢餓に至らずに済む。この「不安」があるために「本能によって、より速やかに行動する」ことができるとする。これは「私の魂の現在、過去にわたる微小な傾向や態勢が無数にあり、それらが私の行為を導くところの目的因をなす」ためとしている。

また、「習慣」の形成についても言及している。ライプニッツは「習慣は徐々に生まれるのであるから、微小表象なくしてわれわれがこうした明確な態勢(=習慣)に至ることはないであろう」としている。

カイロプラクティック的に考えれば、微小表象によって作用する自らの傾向性(=イネイト·インテリジェンス)を利用しながら、悪しき傾向性(=サブラクセーション)を正し(=アジャストメント)、新たな習慣を形成していこうとする···という感じであろうか。

微小表象を形而上学的に考えた場合、人間の認識能力は有限で、われわれにおける「表象」とは事物のごく一部でしかないにも関わらず、人間の魂は無限の宇宙を表象することができるが、これはそもそも魂の認識対象が無限であり、われわれの魂は微小表象を介して、宇宙そのものを内に秘めているためとする。ライプニッツは「微小表象こそ、周囲の物体がわれわれに与える無限を含む印象を、個々の存在者が宇宙の他のすべての存在者との間に有する関係を形成する」ものだと言っている。

また、認識論的に考えた場合のところの「先行する状態の痕跡」のように、「この微小表象の結果として、現在は未来を孕み過去を担う」とし、ある一瞬の小宇宙は宇宙の全系列を映し出すとまで言う。ライプニッツによれば、過去の状態の痕跡が現在のうちに残るのみならず、現在はさらに未来の萌芽であるから、仮に有限な人間には不可能であっても、無限な知性であれば、現在のうちに未来を読み取り得るとする。

その意味では、微小表象は何か大きな記憶や、行動を起こすための単なる鍵ではない。微小表象自体が既に、その大きな記憶や行動そのものであると言える。それは例えばひとつの素粒子の中に、宇宙のすべての歴史が内包され、宇宙の現在の状態を映し出しており、宇宙の未来の姿も秘められていると言うようなものである。

そして、微小表象はそれぞれ宇宙のすべてを内包しているが、無数にある微小表象は異なるものを表しているため、同じものは二つとないと言える。多少問題のある譬喩になるが、海面の上の氷山の形はすべて異なっていながら、海面の下では一切を内包して重ね合わせの状態になっているような感じである。

さらに微小表象と個体との関係性では、「この感覚できない微小表象はさらに同一の個体を指示し構成する。同一の個体を特徴づけるのは、これらの微小表象がこの個体の過去の状態を現在の状態と結びつけることによって保持しているところのこの過去の状態の痕跡ないし表現である」とする。これを現代的に考えれば、先天的な遺伝部分と誕生後の身体の経験によって生じる遺伝子の変化などで、今現在の個人の個体性が規定されていると言う感じであろうか。

このような微小表象は無意識の知覚対象とも言えるが、現代医学的に考えれば、意識されずに脳の中で勝手に行われている様々な制御のための細かな情報群として捉えることもできる。

カイロプラクティックにおけるイネイト·インテリジェンス概念においても、われわれの意識の外でイネイト·インテリジェンスが活動しているとすれば、このような認識されない微小表象によって、様々な生体維持活動をしていると考えることもできるが、この微小表象という考え方は、カイロプラクティックでは「トーン」という言葉に深く関連するように思われる。

「トーン」として考えたとき、微小表象をイネイト·インテリジェンスが統括しているのではない。微小表象自体がイネイト·インテリジェンスであるわけで、それらの個別の微小表象はちょうど知覚されない小さな音であって、それらが知覚可能な音になり、さらに一つのメロディーになるわけで、このメローもまたイネイト·インテリジェンスである。それは人体そのものもイネイト·インテリジェンスであり、一つひとつの細胞も、また細胞を構成するものも、イネイト·インテリジェンスそのものであるということである。それぞれの知覚不能な音が既にイネイト·インテリジェンスそのものであるため、その在り方は「トーン」によって決まる。

例えば、身体(実際は微小表象からなる脳の中の身体)における外環境(実際は微小表象により脳がつくり出す外環境)との同期の度合いや、人体の複合的な器官·組織·細胞などがそれぞれに持つ微小表象の共鳴的な調和などを「トーン」と考えれば、具体的には身体内の振動、あるいは圧変動の同期や共鳴的調和と考えられる。そして、それを固着化するものがサブラクセーションであり、アジャストメントはイネイト·インテリジェンスによる調律のためのきっかけであるとも言える。

そもそも、キリスト教では音楽および楽音は、神の世界の調和を具現化するものだったわけで、調律と言うものは非常に重要なものであった。それは単に、周波数や振動数を機械的に調整するものではなく、もっと有機的なもので魂が震えるような感動を呼び起こすものとして捉えられていたため、この調律は単純に合理的なものであればいいわけではない。

そういう意味では、カイロプラクティックで言う「トーン」とは、微小表象の美しいゆらぎのようなものと言えるかもしれない。画一的で機械的に安定した調和が、必ずしも美しいと言えるわけではない。調和と不調和がないまぜになったダイナミックな状態の方が、より自然な美しさなのかもしれない。それはまた、モナドから生じる予定調和の有り様と考えてもいいのかもしれない。

次回は、ライプニッツの考え方の基盤であるモナドと予定調和について考察してみたいと思う。

参考文献

ライプニッツからの感性論=美学 ――微小表象論の射程――小田部胤久(東京大学)

〈Web〉
TANTANの雑学と哲学の小部屋

さまざまな音律と調律法について

〈ウィキペディア〉
・表象
・ゴットフリート·ライプニッツ


木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員

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