「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第10回
イネイト・インテリジェンスを探して(9)

イギリス経験論・ヒューム 2

 前回、ヒュームは知覚からの経験に基づく印象によって生み出される習慣が、因果関係をつくり出すとした。そして、その因果関係というものは何ら確実なものではなく、そうだろうという思い込みに過ぎないとし、そもそも因果関係などというものはないとしたわけである。因果関係の否定は、帰納法の否定となる。

 このヒュームの帰納法に対する懐疑は、現代まで脈々と受け継がれている。有名なものの一つに「グルーのパラドックス」がある。これは言語習慣というものが、どれほど我々の中に根深く染み込んでいるかということを見るのに相応しい。

 クオリアに研究の先鞭をつけたことで知られるアメリカの哲学者、ネルソン・グッドマンは1987年に翻訳された『事実・虚構・予言』の第3章において、「帰納法の新たな謎(the New RiddleofInduction)」ないし「グルーのパラドクス」と呼ばれる議論を提示した。その議論は概ね以下の通りである。

 「時刻 t 以前に観測されたエメラルドe0,…,enがすべて緑である」という証拠があるとき、時刻 t においてこの証拠が「すべてのエメラルドは緑である」という仮説(エメラルド・グリーン仮説)を支持すると我々は考えている。

 ここで新しい述語「グルー」を「時刻 t 以前に観測されていて緑であるもの、または時刻 t 以前には観測されていない青であるものに当てはまる述語」と定義する。すると上の「時刻 t 以前に観測されたエメラルドe0,…,enがすべて緑である」という証拠は「時刻 t 以前に観測されたエメラルドe0,…,enがすべてグルーである」という証拠でもあるので、これは「すべてのエメラルドはグルーである」という仮説(エメラルド・グルー仮説)を支持することになる。

 したがって、この同一の証拠は、時刻 t 以降に観測されるエメラルドについて、両立不可能な予測をしているグリーン仮説と、グルー仮説の両方を同じ強度で支持することになる。

 この「グルーのパラドクス」が提示している問題は、何なのか? そもそも、今まで観察されたエメラルドがグリーンであるという事実から、エメラルドはグリーンでなければならないという必然性は生じない。これには二つの問題がある。一つは次に発見されるエメラルドがレッドであったら、エメラルドはグリーンでなければならないという仮説は、否定されるということはもちろんであるが、もう一つは「グリーン」という言語自体に妥当性、あるいは必然性があるのかということにある。

 グルーのパラドクスでは「グルーとはある時点(時刻 t)まではグリーンであり、ある時点(時刻 t)以降はブルーである」というものであるが、これはグリーンがある時点からブルーに見えるようになるということではないし、時間経過によって色が変化するという定義でもない。ある時点で我々が何らかの外部からの影響・・・例えば、遺伝子を変化させしめる宇宙線のようなものでも良い・・・で、全人類の色覚細胞が変異し、ある時点から突然、今までグリーンだったものがブルーに見えるようになったというものでもなく、人類の共通の変化として一定の年齢になると色覚細胞が変異して、グリーンだったものがブルーに見えるということが起きるようなものでもない。
 
 グリーンはグリーンで、ブルーはブルーである。では、何が違うかと言えば、言語習慣が違うわけである。ワカメは生のままでは、褐色であり、茹でると緑色になる。これはグルーのパラドックスとは本質的に違うが、茹でる前は褐色で茹でると緑色になるものをワカメ色というようなもので、我々は通常そのような言葉遣いをしない。しかし、それは我々の習慣に依存している考え方に過ぎないのだ。

 グルーとグリーンの差は、我々がどのような言語習慣をこれまで用いてきたかの差に過ぎない。「グルーとは、いかにも不自然な単語ではないか」との反論に、グッドマンは「時刻 t まではブルーであり、時刻 t 以降はグリーンであることを意味する単語をブリーンとすると、グリーンは時刻 t まではグルーであり、時刻 t 以降はブリーンであると定義し直せる」。このように、グリーンもまた同様に不自然な単語たり得ると反論する。

 我々が「グルーのパラドクス」を屁理屈のように感じ、グルーを不自然だと思うのは、グリーンはいつまで経ってもグリーンであり、緑を指すものをある時点で青にするなんておかしい、という我々の知覚からの経験に基づく印象によって、生み出される習慣による思い込みに過ぎない。つまりは、グリーンという色に対する知覚経験から投影される色概念が持つ無意識的な永続性による。

 そのため、我々はグリーンという色がある日を境にブルーという色に置き換わるというグルーなる概念を持っていないわけであるが、それは結局のところ、グリーンという色を永続的にグリーンと呼ぶという習慣に依存しているに過ぎない。この習慣を持っている人間をグリーン人とすれば、グルー人は異なる習慣を持っている。

 異なる習慣だからといって、グルーという色概念を否定できない。その考え方で、緑のものをある時点で青にするという習慣を否定することはできない。なぜなら、グルーにおいてもグリーンは永続的にグリーンであるからだ。時刻 t 以降に初めて観測されるエメラルドがグリーンであっても、時刻 t 以前に観測されたエメラルドはグルーであり、時刻 t 以降に初めて観測されたエメラルドがグリーンであれば、グルーではない。ただ、時刻 t において、緑色がグルーからブリーンに変わるという言語習慣が違うだけである。

 また、エメラルド・グリーン仮説が正しい場合、グリーン人にとってエメラルドはいつまでもグリーンのままだが、グルー人にとってはある日(時刻 t)を境に、発見されるエメラルドはグルーからブリーンに変わることになる。

 エメラルド・グルー仮説が正しい場合、ある日(時刻 t)を境に発見されるエメラルドが、実際にすべてブルーになってしまう。あり得ないと思われるかもしれないが、一歩踏み込むとそういう自然の斉一性の可能性を完全に否定できないことがわかる。この場合、ある日(時刻 t)を境にエメラルド・グリーン仮説は棄却され、エメラルド・グルー仮説は正しいことになる。

 

木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員

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