「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第36回 本論休題2-8
【柔道整復(柔整)師についての私見 4】
健康保険法は大正11年に制定され、15年に施行、昭和2年に保険給付が開始された。この時点では、一定規模以上の鉱工業分野の労働者や、会社員および船員とその扶養家族のみが、職域保険として加入していた。公務員には、それ以前から共済組合による保険制度があった。また、その他の自営業者、農林漁業者、無職者などは無保険者であった(国民皆保険・皆年金が実現したのは昭和36年である)。
しかし昭和4年の世界恐慌の煽りを受け、昭和5、6年は深刻な昭和恐慌となった。このとき最も打撃を受けたのは農民で、当時、米と生糸で成り立っていた農村経済は、生糸の対米輸出激減による価格暴落や、昭和5年の米豊作による米価下落などにより、壊滅的な打撃を受けた(昭和農業恐慌)。農作物価格が恐慌前年の価格に回復するのは昭和11年である。このため自営業者、農林漁業者は、経済的にも医者にかかることが非常に困難であり、治療と言えば鍼灸・接骨・療術が一般的であったと思われる。国民所得も昭和4年を100とすると、昭和6年では77となり、米価や生糸価格および輸出額は軒並み半減した。なお、昭和5年当時の日本の1人あたり国民所得は、アメリカの1/9である。
様々な会社がいつ潰れるかわからないような状況では、そもそも鉱工業分野の労働者や、会社員などに限定されていた健康保険の取り扱いが増えるわけもなかった。ところが昭和6年に満州事変が起き、昭和10年頃になると満州の経済開発が活発化した。この好景気を牽引するためもあったのか、昭和11年には柔整師による「療養費委任払い方式」の健康保険の取り扱いが公認された。これは、当時の内務省社会保険部による特例的措置として認められたもので、当初は非常に不安定な法的基盤の中での適用であった。
昭和10年頃の一般診療所数は、内務省の衛生局年報では35,772施設(病院は含まない)となっており、現在の1/3程度であったので、診療所のみの保険取り扱いでは国民のメリットが少なかったと思われ、整形外科がほとんどなかったこともあり、特に労作性体性痛の多い工場勤務の肉体労働者などから、柔整に対しての保険取り扱いの嘆願もあったとされている。その頃、行政との関係の深かった「全日本柔道整復師会(現・日本柔道整復師会=日整)」が既に全国規模になっており、健康保険普及のために、柔整師たちに保険を取り扱えるようにしやすかったのではないかと考えられる。
当時は戦争の足音も聞こえてきていたため、景気の動向が読めない世情不安の抑えるための政策であったかもしれないし、保険収入を戦費などの財源と見ていたかもしれない。その勢いで昭和13年に衆議院議員の藤生安太郎氏により、柔整師単独法成立に向けた議案提出がなされたが、昭和8年の国際連盟脱退、昭和15年の日独伊三国軍事同盟成立、昭和16年の日ソ中立条約締結・真珠湾攻撃などが勃発し、社会情勢が不安定な時期でもあり単独法の制定には至らなかった。太平洋戦争中には、全日本柔道整復師会1,600名余りの会員による拠出金で国防献金を行い、陸軍省に戦闘機(接骨師号)を献納している。また、昭和7年から嘉納治五郎が講道館医事研究会を組織し、武道の医学的課題にも取り組んでいった。
昭和20年に終戦を迎え、終戦直後の昭和21年にどさくさに紛れて「柔道整復術営業取締規則」が施行されたが、翌22年に新憲法が発布されて従来の各省令は失効することとなり、進駐軍衛生部(PHW)によって「あん摩や鍼灸は非科学的であり、不潔である」として、民間療法や療術行為などの非医業の禁止勧告が行われ、あはき・柔整・療術は消滅の危機を迎えることになる。当時のPHW統括者、クロフォード・F・サムス米国陸軍軍医大佐の命令は絶対的であり、厚生省医療制度審議会も当然逆らうことはできなかった。
このときのPHW非医業禁止勧告に対する厚生省医療制度審議会の答申内容は、以下のようである。
1)鍼灸、按摩、マッサージ、柔道整復術営業者は凡て医師の指導の下にあるのでなければ、患者に対してその施術を行わしめないこととすること。
2)鍼、灸営業については、盲人には原則として新規には免許を与えないものとすること。
3)柔道整復術営業については、原則として新規には免許を与えないものとすること。
4)いわゆる医業類似行為は凡てこれを禁止すること。
このため視覚障害者のあはき師が徒党を組んで、GHQ連合軍最高司令部本部のあった有楽町第一生命館周りを、あんま笛を吹きながら徘徊したらしい。
前記の答申を受けた厚生省は、4)の医業類似行為は全面禁止とし、1)2)3)については医業の一部と位置づけることとした。それが法第1条の冒頭に、「医師以外の者で」を冠した真意であるらしい。結果的に、昭和22年に「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」が制定公布されたが、これは業界や視覚障害者らの約60日間にわたる猛抗議の末に和解案としてつくられた法律である。
一見、敗戦国となった我が国の政策に対して、絶対的権限を持つGHQの意向に抗して、あはき柔整は再び認められることとなったように見えるが、元々GHQは日本政府に対し、あはき柔整を存続させたいのであれば、その理由を文書で提出するよう求めていた。GHQは基本的に間接統治の形を取っており、徹底的な変革を強いる一方で、その実行は日本政府に委ね、自主性を頭から否定することはなかった。
例えばGHQは、労働者が自主的に雇用主に対して意見することができる環境を整え、不当な搾取や権利の抑圧がなされないように、労働組合の結成を奨励することで民主化の施策としたが、同時に徹底的なレッドパージを行わせ、朝鮮戦争が勃発した昭和25年に閣議決定した「共産主義者等の公職からの排除に関する件」に基づき、官公庁や国鉄などの日本共産党系公務員を追放した。この共産党中央委員の公職追放を起点に、報道機関や官公庁、教育機関や大企業などの全産業に拡大して約12,000名余りの共産分子追放(解雇)が行われた。つまり、労働組合に共産分子が入らないようにしたわけである。ただし、銀行や大学では、共産分子はいないとして追放がほとんど行われなかった。このようなGHQの間接統治方針もあり、大きくは二つの理由であはき柔整が継続したと思われる。
一つには、医療機関の決定的な不足とともに、あはき柔整等には伝統医療として、長年の実績に基づく施術効果に対する国民からの信頼によって、当時の医療需要を満たす役割を担っており、これを禁じてもアンダーグラウンドで継続することは明白であり、ならば法律で制御した方が良いと考えたのであろう。二つ目は、多数の施術者の失職によって、より大きな世情不安を生む可能性である。特にあはきにおいては、失職によって生活基盤を失った視覚障害者に対して、福祉強化をしていくくらいなら働かせようという考えがあったのかもしれない。また、この法律により従来の徒弟制度を廃止し、学校制度を整えて品性の向上を図ることが必要とする法的根拠を与え、より現代的な教育対応をすることになった。
さらにマッカーサーが解任された昭和26年には、従前の法律が「あん摩師、はり師、きゅう師、柔道整復師法」に改正され、資格法(身分法)がより明瞭となり、既得権による開業者に対する配慮を含めた、当初の法律名称に見られた「等」の文言も削除された。しかし、昭和39年に再び「等」が入れられ「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」に改正された。「等」が何を指すのか不明確であり、有名な昭和39年1月27日の最高裁大法廷判決の医業類似行為の解釈と関係があるのかは定かではない。
昭和28年には「日本柔道整復師会」と「日本接骨師会」が統合し、「社団法人 全日本柔道整復師会」が認可されて業界を代表する大団体となり、柔整の組織力は飛躍的に向上した。昭和45年に「柔道整復師法」が分離し単行法化され、上記法律は「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」と改称された。このときの「柔道整復師法」の内実は先の法律の抜粋であり、業務内容の法的規制も大正9年当時の「按摩術営業取締規則」の内実と大して変わらないものであった。このような揺籃期を経て、昭和63年に柔道整復師法の大改正が行われ、准看護婦と同じ地方自治体試験から国家試験へ、都道府県知事免許から厚生大臣免許(平成13年以降は厚生労働大臣免許)へと移行した。これにより、柔整師は国家による免許資格としての地位を獲得し(あはき師も同様)現在の至るわけである。
軍部と結びつきの強かった大日本武徳会は解散し、高専柔道は七帝柔道となったが、講道館柔道は武術ではなくスポーツとしてGHQに認められた。講道館柔道が残った理由の一つは、明治以来の警察との深い結びつきで、治安維持の名目でも残さざるを得なかった部分もあったのかもしれない。柔整も大日本武徳会との関係をうやむやに断ち、スポーツとなった講道館柔道よりになっていくとともに、現代医学寄りの学校教育を行う方向でGHQ・PHWにも認められやすくなったのかもしれない。
先の講道館医事研究会も、昭和23年に講道館柔道科学研究会と改称し、現在も医科学的研究を継続しており、研究の成果は「講道館柔道科学研究会紀要」として刊行され、一部の論文はHPで閲覧可能である。柔整が学校教育になってからは西洋医学的な知識が主流となり、柔道整復はその武術的柔術的側面=柔術活法を積極的に排除していったのではないかと思われる。これは徒弟制度の廃止との関わりが大きいであろう。しかし昭和の時代には、学校卒業後にほぼ徒弟として接骨院に就職し、修業の身であるため賃金も雀の涙程度であったが、以前の徒弟制度のような形での、技術の継承は行われていかなかったように思う。
また、この学校教育化は都道府県柔整師会とともに、柔道関係で警察官僚などの天下り先として機能していた可能性もある。そのため学校の少なかった時代は、特に柔整と警察との関係が深かったようである。
あはき柔整以外の医業類似行為も、既得権により営業を継続しており、それが現在の療術となる。療術に関してはカイロプラクティックと深い関係があるので、稿を改めて書きたいと思う。このような形で柔道整復は行政と密接に関わってきており、今でも日本柔道整復師会の日整広報には、内閣総理大臣、厚生労働大臣、日本医師会会長などが年頭所感を寄せている。
柔道整復の歴史については下記のHPが詳しい。
https://www.jusei-news.com/feature/kokumi-shiji/
木村 功(きむら・いさお)

・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC)で長年、理事、副会長兼事務局長を務める
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 理事
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