イネイト・インテリジェンスとは何か?」第34回
本論休題2-6
【柔道整復(柔整)師についての私見 2】
柔道整復とは何かということを歴史的に辿ってみると、奈良・平安時代から接骨の技術があったことはほぼ間違いない。柔術以前からあった手乞、つまり古代相撲は古事記の時代からあり、最古の接骨は古事記の国譲りにおける【建御雷神】と【建御名方神】の手乞で、雷神が名方神の手を握りつぶし、雷神がこれを治療したとなっている。そのことから、対をなす【香取神宮】とともに、武術の神を祀った【鹿島神宮】の祭神である、建御雷神を接骨術の祖神であるとする向きもある。
日本書紀に記載のある有名な【野見宿禰】と【当麻蹴速】の【捔力(すまひ)勝負】では、主に蹴り技の応酬で最後は宿禰が蹴速の肋骨を蹴り折り、蹴速が倒れたところで追撃して腰骨を踏み砕き絶命させたとされている。この記述が柔術の起源とする説もある。こんな勝負をしていたら、怪我人も多く接骨術があったのも頷ける。平安時代中期に編まれた辞書「和名類聚抄」の「術芸部」に、【須末比(すまひ)】と【古布志宇知(こぶしうち)】という言葉を確認できる。須末比は言うまでもなく相撲の元型である。また、平安時代の古文書に「円融天皇の御代に接骨博士数名あり、各自特有の手法を持って正骨し・・・」という記述があり、養老律令には【按摩博士】などの記述もあるが、どのようなものであったかは不明である。
984年の丹波康頼による「医心方」にも、骨や関節に関する損傷について記述されているが、天皇より典薬頭の半井家に下賜された門外不出の秘本であったため、誰彼見ることのできるようなものではなかった。1854年に一度だけ幕府に貸し出されているが、これがのちの接骨術とどれほど関係があるのかは定かではない。
武家社会になり、平安時代末期から江戸時代初期にかけては、戦さによる怪我人が多かったはずである。それゆえ、外傷を治療する技術が武家の間に広まっていったことは容易に想像できる。基本的に切創・刺創・銃創が多かったであろうから、創傷処置が主であったと思われ、これらを治療する者は【金創医】などと呼ばれた。これらの伝承は春秋戦国時代(紀元前770年~)より戦さが絶えなかった中国由来の僧侶が行う漢学医系統や、キリスト教伝来に伴う南蛮人が行う蘭学医系統(床屋外科)などが主体であったようである。ただ、鉄砲伝来以前の戦さでは、弓馬だけでなく印地打ちなどの飛礫投擲戦も多かったようであるし、主力の槍なども突くよりも叩くことの方が多かったため、打撲や骨折などもざらにあったと思われる。
この金創医たちも当然、骨折、脱臼、打撲などの治療も行っており、伝来したものを古来からの伝承技術と擦り合わせて、日本人特有の創意工夫により発展させていったと思われる。戦乱が多い時代には、金創医の身分や待遇は土地の豪族などにより保証されており、そのため治療法(呪術・祈祷的側面もあり)に関しては、極端な秘密主義で一子相伝とされた。恐らく柔整においても、このような傾向が昭和まで続いたと思われる。
このような治療法の一端としては、1978年頃に中日ドラゴンズの谷沢健一選手がアキレス腱痛で選手生命が危ぶまれたとき、元特務機関諜報部員であった小山田秀雄の日本酒マッサージを2年間受けて回復した。これは忍者マッサージなどとも言われているが、こういった治療法も恐らくは戦さでの殺傷の穢れを祓うために御神酒を体に擦り込んだところ、思いのほか打撲傷や古傷などが緩解した、などという経験から出たものではないかと思われる。湯治なども同様なものであろう。
因みに、古代に医術が最も発達していたと思われるのはアラビア・メソポタミアで、紀元前5000年前のシュメール文明の頃に遡ることができる。ヒポクラテスでさえ紀元前500年頃である。その後、2世紀頃にローマのガレノスによる、いわゆるガレノス医学が体系化された。この流れで内科医が医学の中心となり、外科は卑しい仕事とされたが、長い間ガレノスの考え方がドグマとなっていたため、これに異を唱えることはできず、医学自体の発展はほぼなかった。このような事態は、現在のカイロプラクティックの一部にも見られるように思う。そのため戦場などにおいて、物資のない状態での治療を余儀なくされていた、アンブロワーズ・バレのような床屋外科の方が発展していった。彼は血管結紮法を編み出し、のちにフランスの王室公式外科医となった。1582年に「大外科学全集」を出しており、彼の著書は様々な国の言語に翻訳されて広まった。彼の有名な言葉に「我包帯す、神、癒し賜う」というものがある。
話を柔術に戻すと、平安時代から【相撲節会】があったが、武家の時代になると倒すことが主眼となる【武家相撲】として盛んになっていった。これは鎧組討の修練という側面もあり、こういう武家相撲が柔術の起源であることに不思議はない。もともと相撲自体は神事でもあり、各地土着の風習でもあって、江戸時代からは【勧進相撲】となって現代の相撲に続く系譜となる。 このため柔術とは別の発展をしていったが、特に終戦後から柔整師と相撲の関係は深い。まあ、でかい力士を徒手整復できるのは、それなりの体格を持った柔整師くらいしかいなかったためである。これは手術をして、しばらく相撲が取れなくなることを嫌ったためとも考えられる。往々にして力士は怪我を隠す風潮があり、そのため現役寿命が短くなる傾向がある。
日本最古の柔術は、戦国時代の1532年に創始された【竹内流捕手腰廻小具足(たけのうちりゅうとりてこしのまわりこぐそく)】とされるが、もともと竹内流は柔術と名乗ってはいない。また天正(1573〜1592年)の頃に【荒木流拳法】が創始され、これは捕手術や小具足術を主体とし様々な武器術を駆使する総合武術である。この頃の武術はほとんど総合武術で、竹内流も徒手での【捕手:とりて(自分から仕掛け敵を殺さずに制圧する術)】・【羽手:はで(敵の攻撃を受けて返す術・破手)】・【小具足:こぐそく(短刀などを用いて敵を制圧殺傷する術)】・【捕縄術】などの柔術系の技とともに、剣術、小太刀、長巻、薙刀、槍(短槍・管槍)、十手、棒、鎖鎌、分銅鎖、乳切木など武器術があり、流派によっては鎧を着ての水練などまで含むことがある。
因みに小具足とは、短刀があれば小具足姿と同じように身を護れるという意味と、甲冑を着た敵の兜・胴・大袖以外の小具足周りを攻撃する術という意味があるようである。基本的に柔術とは剣を使わない剣術とも言え、武器のないときの武器術応用であり、武器術の延長として剣術などの武器術の動きが、そのまま活かされているものである。
このように柔術の起源は戦場での【鎧組討】に始まると考えられる。組みついて鎧通しのような反りのない小刀で絶命させることが目的であるが、組みつくだけでは反撃の恐れがあるので、相手を倒して制圧殺傷する技術が恐らくすべての流派で発達し、これが立技・寝技として体系化され、柔術の基礎になったと思われる。このときの工夫に重心を上手く制すると、相手が動きにくくなり倒しやすいため、そういう崩しの技術が発展していったのではないかと思われる。特に大鎧は20Kg以上もあり、重心変化に対応しにくい部分もあったであろう。また関節を取られた場合、無理に抵抗すれば骨折や脱臼するが、死ぬよりはマシであるので骨折・脱臼を負って逃げ帰ることもあったであろう。これらに対する治療方法も確立されていったと思われる。やがて戦乱が治まると、鎧兜を着用することはなくなり、一般的な着物姿の相手を倒す技術が発達したと考えられる。鎧兜を廃し、打刀二本差しにしたのは徳川家康の平和政策の一つとも言われている。
江戸時代では、捕り方なども2〜3mの長さを持つ3道具(刺股・突棒・袖搦)や梯子などが使われるようになり、多少怪我をさせても殺さずに取り押さえることが主流となっていった。こういう道具は相手の崩して倒すことが狙いであるので、その修練のためにも柔術が発展していったとも考えられる。古来より相手を崩すために【当身技】などが使われていたが、鎧兜のときのような体当たり的な当身だけでなく、着物の状態になったため、頭部や金的、鳩尾、腎臓、肝臓などの、いわゆる急所への精密な打撃が現れてきたようである。現在の急所の名称は、講道館柔道の流れで【天神真楊流】のものが使われていることが多い。また、上級武士は通常戦いの采配をするだけで、実際の戦闘は足軽など下級武士の仕事であったであろうから、これらの技術はのちの捕り方(与力、同心)などの下級武士の間で盛んであったのではないかと思われる。
江戸時代初期には、旗本奴や町奴などの傾奇者が跋扈(ばっこ)し、また中期以降も飢饉や大火があると無宿人なども流れ込み、江戸の治安も悪くなることが多かったため、治安維持は初期には【御先手組(先鋒足軽隊)】、のちの火付盗賊改が行っていたが、組与力や組同心の取り締まりは極めて乱暴であったらしく、庶民から恐れられていたようである。彼らに柔術の嗜みがあったのは間違いないであろう。また、同じく治安維持や犯罪者の捕縛を行っていた、町奉行所の与力や同心、小者たちなど十手を持っている者は、大抵柔術を修めていた。八丁堀の組屋敷周辺には大きな道場があったとされている。当時から、複数の流派を修めることもよくあったと思われ、江戸時代の柔術はこういう背景で発展していったのではないかと推測される。Wikiの柔術の項を見てもわかるが、その流派数は膨大である。
こうした柔術の発展の中においても、実際問題として柔道整復の真の源流を辿るのはなかなか難しい。徳川家康の頃に創始された【楊心古流】の流祖である三浦楊心は、養生に関して探究心が深く、そのため楊心古流の流れを汲むものには養生法・活法・整骨術の伝承があった。また、秋山四郎兵衛義昌が流祖である【楊心流】も殺法、活法、医学知識に優れた流派であったと言われており、幕末の幕府講武所柔術でもあった。講道館の源流である【天神真楊流】は、【真之神道流】と楊心流の流れを汲み、骨継ぎで有名な名倉家の業祖名倉直賢は楊心流柔術および剣術で免許皆伝であった。
柔道整復が柔術の活法を起源とするならば、体系化される基礎は鎧兜がなくなり、いわゆる素肌武術が盛んになった江戸時代からであろうと思われる。接骨術の日本への伝承は、先の金創医と同じく、中国由来の漢学医系統・南蛮由来の蘭学医系統があり、これらの源流とともに、独自の工夫を凝らした柔術系統が生まれたとされる。また、もともと文人である【陳元贇】が、1619年に拳法と正骨術を江戸と長崎で伝授したとされており、この流れも汲んでいる。
田沼時代から寛政の改革の頃、鬼平こと火付盗賊改方、長谷川平蔵宣以が活躍した江戸時代中期(1650〜1800年頃)には、江戸の【名倉家の名倉直賢(初代・名倉素朴)】、【大阪灘波の伊吹堂年梅家の年梅信満】、【長崎杏蔭斎流整骨術の吉原元棟】など、庶民に対して接骨を生業とするものが出現し、これが近代日本の接骨三大源流と言われている。名倉家に関しては有名であるので省略する。年梅家についてはよくわからないが、【各務文献】が入門し整骨術を秘伝として弟子にも教えないことから、憤慨して独学に切り替えている。吉原元棟に関しては、陳元贇の教えを受けた3名のうちの【三浦与治右衛門義辰】が師であるらしい。
同時期に精巧な木製骨格模型を作らせた【星野良悦】や、同じく木骨や「整骨新書」など接骨の書籍を著した前述の各務文献、吉原元棟に師事し、アンブロワーズ・バレの影響がある「正骨範」を著した【二宮彦可】、「骨継療治重宝記」を著した【高志鳳翼】、蘭学や特に整骨に関してはアンブロワーズ・バレの影響が大きい【華岡青洲】も「華岡青洲整骨秘伝図」「春林軒治術識」などを著している。2025年の大河ドラマ「べらぼう」の主人公・蔦屋重三郎の頃であるので、出版物が全盛期とも言える時期である。
これら江戸時代の骨継ぎ術が、幕末から明治初期の接骨術を経て、大正に柔道整復術になったようであるが、柔術そして柔道との関連がさらに深くなっていく。この話は次回にしようと思う。
木村 功(きむら・いさお)

・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC)で長年、理事、副会長兼事務局長を務める
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 理事
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