「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第6回
イネイト・インテリジェンスを探して(5)

大陸合理論・ライプニッツ ②

 前回に引き続きライプニッツについて述べていきたいと思う。その前に前回トーンの話が少し出たので補足しておきたい。

 D.D.パーマーが磁気治療を行っていたのは有名な話だが、磁気治療を創始したフランツ・アントン・メスメルが、治療の際に楽器を使っていたことは、あまり知られてはいない。楽器の名称は「グラス・ハーモニカ」、あるいは「アルモニカ」と呼ばれるもので、ベンジャミン・フランクリンが1761年に発明した複式擦奏容器式体鳴楽器である。

 楽器の形状や音色はネットで確認できる。簡単に言えばグラスハープのようなものであるが、この楽器は出たときには「天上的な声色」とか、「天使の声」だとか言われ一世を風靡したが、やがて人の気を狂わせ死霊を呼び起こし、奏する者や聴く者を死に至らしめる恐怖の楽器と恐れられていった。

 メスメルがウィーンを追放されたのも、結局この楽器を治療時に演奏したためであった。余談ではあるが、メスメルが行った治療をメスメリズムと言うのはご存知であろう。メスメリズムは明治時代に日本に伝わり、日本の伝統的テクニックと融合して明治末期から昭和初期にかけて大流行した。

 この一連の民間療法は霊術と呼ばれ、現在の療術と表裏の関係にある。大正から昭和初期にかけての霊術ブームの引き金となった、田中守平が創始した太霊道(たいれいどう)が有名である。特に新宗教(岡田茂吉を教祖とする世界救世教など)では「手当て」「手かざし」「浄霊」などと呼ばれ、オウム真理教のシャクティパットなども同様なものと考えられるようである。

 また、キリスト教で行われる按手は、旧約・新約聖書を通じて見られる一つの儀式的な行為であるが、祝福、癒し、叙階、聖霊を受けさせるためなど、様々な箇所で「頭に手を置く」という記載があり、このとき、様々な心身変容が起こることがある。

 田村治美はメスメルの失脚の要因は、彼が過去の思弁的な宇宙の調和理論に固執し、当時の合理的で実証的な生理学や神経学の波に乗っていなかったことや、それらの学問を自己流の勝手な解釈で取り込んだ脆弱な理論では、神経と宇宙との全統合を目指す一貫した流体理論体系を築けなかった。この他に、メスメルの異常な人気が既存の権威の反感を買ってしまったことにあり、当時の政治状況、科学者たちの利害などが絡み合い調査委員会の結果が、かなり偏見と策略に満ちたものであったと考えられると記述している。メスメルの治療は大きな効果と絶大な評価を得ており、莫大な財産を築いたにもかかわらず、いわゆるシャルラタンとして完全に似非科学の象徴となったとしている。

 メスメル失脚の原因の一つであるアルモニカであるが、なぜ音楽が治療に取り入れられていたのかと言えば、話は古代ギリシャまで遡る。古代ギリシャのピタゴラスは、鍛冶屋がハンマーで金属を叩く音を聞いて、音程が整数の比で調和することを発見した。

 そして、「万物は数である」として、いわゆる数秘術を発明した。古代ギリシャの思想では、人間の健康は調和が取れている状態であり、調和が崩れると病気になると考えられていた。この調和の概念は天体と人間の心身の間に相関関係を持ち、宇宙の調和と心身の健康は同義のものと考えられていた。これはイネイト・インテリジェンスとユニバーサル・インテリジェンスの関係の原型であろう。

 音楽はピタゴラスの発見以降、数を音として直接的に身体に伝えることにより、宇宙と人間の間に介在し、その調整を図る極めて重要な「道具」であった。そして、音楽を規定するものは種々の比率関係を扱う数学的思索である、という観念は、前回のライプニッツによる「音楽は魂の無意識的な計算行為である。その際、自分がいま計算していることを精神は知らないでいる」(ライプニッツ書簡集)とか、バッハの「(音楽は)数的表現の複雑に入り組んだ織物」という言葉でも明らかである。

 現代では、こういう思想的、宗教的な考えに基づく音楽療法はなされていない、と思われるが、当時は音楽が人間に何らかをもたらすのは、その振動(数)が人体を揺り動かすためであり、人体自体も多様な音を有し、また音楽(リズム等)により身体機能そのものが変化することなども自明なものであったと思われる。それは現代の音楽療法にも見られる考え方であろう。

 昨今、グレゴリオ聖歌などで言われるソルフェジオ周波数もまた、こういうところに起源があると思われる。トーンという概念は色(光)にもあるが、(色彩論を書いたゲーテと光学理論を書いたニュートンのプリズム論争も面白い)遡れば、こういう数比的な考え方から来ているのだと思われる。

 

 さて、前置きが長くなってしまったが、本題に戻ろうと思う。ライプニッツ哲学の根本概念である「モナド」であるが、モナドは宇宙を構成する、物質ではない、それ以上分割できない、広がりも形も持たない、いわばスピリチュアルな実体で、生まれたり消滅したりしない最小の単純実体である。これを仮定して、宇宙のすべての微小表象に対して、無数にあるそれぞれのモナドが属性を持ち、異なった状態で区別される(ブリタニカ国際大百科事典)。つまりは多元である。

 ライプニッツはモナド概念の素地として、微小表象の他に「不可識別者同一の原理」というものを提示している。これはXの持つすべての性質をYが持ち、同時にYが持つすべての性質をXが持つとき、X=Yが成立するというもので、当たり前のことでありながら、実際にはあり得ないとする。ライプニッツはモナドロジーの中で、「自然の中には、二つの存在が互いに全く同一で、そこに内的な違いが・・発見できないなどということは決してない・・・」と言っている。一見、同じに見えてもすべて異なっていることを知るために木の葉の観察を勧めている。

 またライプニッツは、矛盾律と共に論理学の二大原理の一つとなる充足理由律、即ち「どんな事実でも、それが成立するには、十分な理由がなければならない」という原理(精選版 日本国語大辞典)を提示しており、モナドロジーでは「32.十分な理由の原理。これによると、AがなぜA以外ではないかを十分に満たすに足る(究極的な)理由がなければ、どんな事実も真ではない、存在もできない。また、どんな命題も正しくないということだ。もっとも、このような理由は十中八九知ることはできないが・・・」と言っている。つまり、ある出来事にはその出来事が起きるために十分な理由があるわけだが、われわれはその理由を完全に知ることはできないというわけである。

 さらに偶然的事実に見出される理由は、その事実を必然的なものにしないという。例えば、今この地に雨が降っていれば、低気圧に覆われているという事実があるわけだが、低気圧に覆われているという事実が、必然的に雨を降らせるということにはならない。

 このような考え方からライプニッツは、よりミクロな視点に入っていき、またモナドには階層的な区分があると考えた。その区分とは、物体としての「裸のモナド」、霊魂を存在として考える「動物精神のモナド」、さらに人間の理性をその上位存在として考える「理性的精神のモナド」、そして、さらに高次の「神のモナド」などである。

 これにより、生得観念に関するイギリス経験論と大陸合理論との間の対立を収束しようとし、中世のスコラ哲学以来の課題である神の実在証明を近代科学的な物質観、あるいは数学的概念と融合して説明しようとしたわけである。

 ライプニッツがワグナーに書いた手紙には、次のような記述がある。「物質の至るところに生命の原理、即ちモナドが広がっています」。

 このモナド自体の持つ原理に由来し、無数のモナド同士は関係を持たないが、宇宙や世界に起きるすべての変化、因果関係などは、無数のモナドの状態変化を反映して現れる、これを表して「モナドは鏡である」と言う。つまり、モナドこそが表象であるということになる。そして、モナドは常に変化し、この状態変化の傾向性を「欲求」と言う。

 また、モナドは厳密に相互に独立しているので、「モナドには窓がない」と言い、互いに独立したそれぞれのモナドが、他のモナドとは関係なく自己展開していき、相互関係を持たないそれぞれのモナドは、さまざまな微小表象を介して宇宙の中にあるすべての存在について、予め知っていると言う。

 それぞれすべてを知っているため、ちょうど無数にある時間を合わせた時計のように、すべてのモナドは本質的に調和する。これが予定調和で、この予定調和によって、宇宙全体の秩序が形づくられているという壮大な世界観を展開していく。

 さらに、このモナドが人間の魂の本性であり、究極の実体だとすることにより、こうしたモナドと予定調和に基づくと、モナドによって形成されている人間の心は、人間の誕生の瞬間から、経験に先立って(先験的)世界の内にあるすべての存在に関する微小表象を、潜在的に既に持っていることになり、生得観念の存在を認めることが可能となると考えたわけである。

 そういう意味では、モナドとは最小の有機的な非物質実体(機械)である。このようなモナドを、筒井康隆は「モナドの領域」で「ライプニッツ君に言わせればモナド、お前さんたちの言い方で言うならプログラム」と言っている。私はモナドを最基底のオートポイエーシス・システムと言いたい気がする。

 また、ジル・ドゥルーズは「差異と反復」で「差異的=微分的な関係=比」というものを提示しているが、これもモナドの本質を表していると思う。ドゥルーズ的な考え方によれば、例えばイネイト・インテリジェンスとユニバーサル・インテリジェンスをそれらの同一性により捉えるのではない。まさに、その真逆のイネイト・インテリジェンスとユニバーサル・インテリジェンスが持つそれぞれの「差異」と「反復」、つまりは小さな・・微分的な・・違いの連続と、その関係性=比・・・によって、それらを記述しようという、とんでもなく面倒なことを行うことで真理に近づこうというわけである。

 イギリス経験論に出てくるヒュームの自然の斉一性原理に基づけば、簡単なものを敢えてわかりにくくしているということで、有名なソーカル事件が起こったりした。まあだいたいドゥルーズの言っていることは、よくわからないことで有名ではある。斉一性原理での答えと同じ答えになるにしても、わざわざ険しい遠回りをしている。ただ、遠回りの中に真理があるかもしれないわけであるが・・・・。

 ここで最初のトーンの話に戻りたい。音楽におけるトーンとは、音の数比的関係から紡ぎ出される。色(光)の場合、ニュートンならば波長あるいは周波数、ゲーテならば色彩あるいは明暗の境界から生まれると言う。

 モナドのあり方から考えられる調和の本質(予定調和)、あるいはイネイト・インテリジェンスと言ってもいいが、それは「これが自己である」という同一性ではなく(そもそも同一のものはない)、今の自己と次の瞬間の自己・・・そのときどきに各自己の持つ十分な存在理由・・・との「差異」と「反復」によって紡ぎ出される。その意味ではトーンとは予定された「差異」と「反復」の変遷とも言える。その意味では、不調和もまた調和の一つの形であるとは思われるわけではあるが・・・・。

 このとき、変遷を伴わない、例えばレコード針が飛んで同じところを再生し続けるような「差異」と「反復」、つまり変化できないことがサブラクセイションということになるのかもしれない。

 さて、次に説明するイギリス経験論では、「予め感覚の内に存在しなかったものは、知性の内にも存在しない」という見解であるが、ライプニッツは「ただし、知性そのものを除いては」と言う。これは知性が感覚以前に微小表象を基盤とするモナドによって生じているということであり、現代風に言えば、「感覚の内に存在していない無意識」の中に既に知性があるということであろう。これもまたイネイト・インテリジェンスの一面に見える。

参考文献
  • 18世紀における「生命科学」と音楽の関わり : アルモニカの流行と凋落、B.フランクリンとF.A.メスメルをめぐって 田村 治美 人文科学研究 : キリスト教と文化 49号  国際基督教大学キリスト教と文化研究所 [編]2017
  • 癒しと救い: アジアの宗教的伝統に学ぶ 立川武蔵 玉川大学出版部 2001
  • 東大→JAXA→人気数学塾塾長が書いた数に強くなる本 永野 裕之  PHP研究所 2022
  • ライブニッツにおける偶然性の問題. 哲学論叢 宗像恵 1978
  • 差異と反復 ジル ドゥルーズ  河出書房新社 1992

木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員

 

 

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