「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第27回
イネイト・インテリジェンスの甦生(12)

(3)散逸構造4-2-2

 このように途切れることのない連続態であるシステムを、分割的に見ることは作動というシステムの本質を取り落としてしまう可能性がある。例えば現代医学では、歩行でも連続写真で片脚ずつを立脚期、遊脚期に分け、さらに細かく分解していく。このような考え方では古代ギリシャの哲学者、ゼノンの逆理(パラドックス)である「二分法」や「飛ぶ矢の逆理」が発生してしまう。
 

 「二分法」とは、「移動するものは、目的点へ達するよりも前に、その半分の点に達しなければならない(これを永遠に繰り返さなければならない)がゆえに、運動しない」というもので、歩行時の足の位置が移動していても、分割的に考えた場合、無限の位置移動を繰り返さなければならない。無限の位置移動には無限の時間がかかるため、結果的に有限な時間内では歩行できない。足を踏み出した途端、進もうとすればするほど無限分割の底なし沼に呑み込まれる。つまり、分割的に見るということは、移動可能な歩行とは本質的に異なるものを見ていることになる。また、「飛ぶ矢の逆理」とは、端的には「飛んでいる矢は、いつの時点でもその瞬間で止まっている。 であるならば常に止まっているわけで、飛んでいる矢は止まっている」というものである。この場合も、歩行しているものは動いていないことになり、これも本来の歩行とは異なるものを見ている。

 一般的な時間概念において、時間を線だと仮定すると、例えば11時27分40秒は線上の一点である。この点の連続が時間の経過となる。ここでxy座標系においてx軸を矢の飛行時間、y軸を矢の移動距離とした場合に、この飛ぶ矢の逆理に正面からぶつかることになる。時間軸であるx軸上の一点は瞬間である。ちょうど、映画の画面上で矢が飛んでいくのと同じであり、本来1コマ、1コマにおけるフィルム上の矢は常に止まっている。フィルムの1コマは連続していない離散的なデータと言える。これを連続的につなげて動きを作り出しても、フィルム上の各コマの矢が静止していることに変わりはない。

 同様に、歩行も瞬間、瞬間の静止状態を考えてしまうと、本来の歩行とは別のものになってしまう。つまり、歩行を分割的に考えた場合、連続動態である歩行そのものとは本質的に異なってしまう。これは、本来エントロピーが増加していく開放系を、切り出して閉鎖系として捉えることに類似する。要するに、物事を分割して捉えることは、科学的な還元主義の基本概念と言っても良いであろうが、一方で抽象化することにより、なにがしかを取り落としてしまう。

 このゼノンの逆理は、アリストテレスの運動論の中で述べられているもので、「二分法」や「飛ぶ矢」の他に「アキレスと亀」「競技場」の計4つがある。これはゼノンの師であるパルメニデスが、真なる実在は分割不能な単一なるものであるとしたところから始まるらしい。その頃のギリシャ哲学では、世界は多様なものからできていると考えられており、パルメニデスの説は一笑に付された。そこでゼノンは、世界が分割可能ならおかしいことがある、として上記の4つの逆理を挙げたわけである。
 

 有名な「アキレスと亀」は、「先に出発した亀に、アキレスは決して追い着くことができないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走り始めた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである」というもので、「二分法」の相対的な形式となっている。

 「競技場」は説明が面倒なので図で書くと、定規(本来は複数の荷車を牽引する馬車である)が、Aのように向かい合って進むとして、1秒に1目盛ずつ進むのを移動距離と移動時間の最小単位と仮定した場合、定規がBの位置になったとき、互いに最小単位分進めばCの位置になり、外部から見ると1秒に2目盛進んでいるが、Dのように1目盛が重なる位置があるはずなので、等速であれば最小単位は0.5秒と0.5目盛になってしまう。

<ゼノンの逆理 競技場>

 

 では、0.5秒と0.5目盛を最小単位の1目盛としても、同様に互いに進めば2目盛分進んでしまうので、さらなる最小単位が現出する。これが永遠に繰り返されるので、分割する上で必須とも言える最小単位というのものは、いくらでも細かくできるという底なし沼に落ち込んでしまう。つまり、時間と空間は無限分割される。時間と空間が無限に分割されるのであれば、すべての無限回をなめてしまわないと行き着くことができないので、運動すること、あるいは運動し始めること(馬車がすれ違うこと)は不可能であり、結果的に最小単位という概念は成立できなくなるというようなものである。

 連続したものを分割して捉えると、「二分法」によれば移動しようとしても移動することはできず、「アキレスと亀」に当てはめれば、逃げていく者に向かって矢を放っても矢が届くことはない。それどころか「飛ぶ矢の逆理」のように飛ばした矢は止まっている。また、競技場で馬車がすれ違うためには無限の時間が必要となる。

 これらは言うまでもなく詭弁であり、移動するものは目的地に到着するし、アキレスは余裕で亀を追い抜き、飛んでいる矢は止まることはなく、競技場で馬車はすれ違う。これらの逆理は、世界の本質がパルメニデスの言うように、分割不能な一元なるものであれば成立しないが、時間と空間と事物を分割可能な単位からなる連続量とした場合に、突きつけられる哲学的アポリアであり、有限の中に無限が存在してしまう科学的概念と実際の現実との間の根元的な矛盾である。
 

 さて、「飛ぶ矢の逆理」を破るために次のような考え方がある。運動と静止を対義とした場合、運動には動くための時間の幅が必要なように、静止にも止まっているための時間の幅が必要になる。このとき、瞬間というものを完全に幅のない時間と定義した場合(幅がないのに間という字を使うのは矛盾を感じるが)、存在のみは措定できるが、運動も静止もできないことになる。

 例えば時計の特定の時刻、11時27分40秒という幅のない瞬間においては、時間の幅を必要とする運動も静止もあり得ないため、矢は存在のみがあることになり、パラドックスは破れるかと思える。ちょうど、映画フィルムの1コマを取り出して、存在はあるが時間はないと言っているようなものである。時刻11時27分40秒から1秒進むと時間の幅ができ、矢は飛べるわけであるが、11時27分40秒という時間を幅のない瞬間だとした場合、それは「0」と同義である。11時27分40秒という瞬間が「0」であれば、それぞれの時間の指し示す時刻の瞬間は常に「0」である。幅のない時間、すなわち「0」である瞬間を、いくら積み上げても「0」にしかならない。そうすると、時間は永遠に経過しない。

 この場合、矢は存在のみがあるので、飛ぶ矢の逆理は「もし、どんなものも、それ自身と等しいものに対応しているときには常に止まっており、移動するものは、今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かない」という本来の記述に即したものになる。

 要するに、時間が経過しないなら矢が動くことはない。そもそも、時間というものの性質上、幅が存在していない時間、つまりは経過しない時間というものが存在できるのは、妄想の中だけであろう。映画のフィルムでも時間を使わずに、その存在を1コマに焼き付けることはできない。時間の経過が、時間というものの絶対条件であれば、幅がない時間というものはあり得ない。

 では、時間には常に幅があり分割可能だとすれば、時間には最小単位があると考えられる。瞬間というものを時間の最小単位だとすると、瞬間に幅があるということになるが、そうすると「二分法」や「競技場」のパラドックスが提示されてしまい、最小単位である瞬間自体は2分割されて、さらなる最小単位が生じる。つまりは、最小単位という考え方が間違っているというほかない。真なる最小単位は存在しておらず、あくまで任意の仮定にしか過ぎない。最小単位が仮定のものであれば、そこから演繹されるものすべては、仮のものでしかない。

 これはちょうど、カントのコペルニクス的転回のように、対象が認識を生じさせているのではなく、認識が対象を生み出している。ここでの問題は、時間以前に時刻を刻む時計があると考える点であろう。時間自体にとって時計の時刻など知ったことではない。エントロピーの増大が時間の経過であれば、時分秒などの単位があろうがなかろうが、われわれの時間認識とは関係なく、時間は経過していく。これが、いわゆる科学的思考の誤謬の原点であろう。時計が時間を決めると考えるのは、人間以前に人間による科学があると考えるようなものである。科学=自然宇宙一切ではない。科学とは結局、人間が自然宇宙一切を、自分たちなりに理解するための方便でしかない。
 

 このように、ゼノンのパラドックスは、基本的に空間・時間・存在によって生じる運動に対しての数値化や分割に対する問題提起である。ゼノンの言うことを屁理屈だとするのであれば、結局ダブル・スタンダードになるしかない。ダブル・スタンダードが許されるのであれば、唯一無二の真理などなく、真理は都合によって変わってしまうのであるから、何を言っても誰も文句は言えないということになる。相対的な間違いはあっても、絶対的な間違いなどないということになる。

 数列0、1、2、3・・・のそれぞれの間は「1」である。数列自体が分割である以上、この「1」には、底無しの深淵がある。そして、無限でありながら有限であるがために、ゼノンの逆理が成立してしまう。0.9999999……..∞を代数xとして方程式を作り、x=1が証明できれば、無限の壁を乗り越えられるが、これは結局、量子化であり、四捨五入と変わりはない。

 0.9999999……..∞ならば、なんだかよくわからないが、計算結果は大して変わらないから「1」でいいだろうとしているに過ぎない数学的欺瞞である。

 また細かい値がどうであれ、計算結果は大して変わらないと仮定した場合に、問題となるのはカオスの初期値鋭敏性であろう。量子化とは、古典的な連続量(アナログ・データ)として理解されていた物理現象を、量子一つひとつの集合体である離散的な物理現象(デジタル・データ)として解釈し直すこと、つまりは現象を数学手法の確率的な整合性に置き換えておいて、抽象化するようなものである。

 0.9999999……..∞=1とは、量子力学のコペンハーゲン解釈のように、人間による観測の仕方で結果が異なる状態とも言える。量子自体が、なんだかよくわからないものであっても、観測により粒子になったり、波動になったりするならば、数字も人間の都合で、重ね合わせに無限になったり、有限になったりすれば良い。先の話のように、時間の起点を「0」とすれば、どの瞬間も起点になり得るので、時間は経過できない状態と経過する状態の重ね合わせになる。概念上の認識時間は、人間の都合で過ぎたり止めたりすれば良い。

 0〜1の間は無限に分割されるが、この無限分割されたものをすべて合算すれば、有限になる。ただし、合算に要する時間は無限となり、本来合算は不可能である。だが、結果は既に有限と決まっているわけであるので、合算したことにしてしまえば良い。カオスによる初期値鋭敏性があっても、結果的に計算結果がストレンジ・アトラクターという特定の有界内に止まるのであれば、その有界を極小化してしまえば良い。

 この数字のアビスを、われわれが作り出しているのだとしたら、それは人間が対象をそのままに数値化して認識しているのではない。対象が人間の主観の先天的形式によって構成される、としたカントのコペルニクス的転回のように、数値化によって表される対象は、われわれの主観により構成されるものであって、われわれは対象そのものを、対象そのものとして認識できないということでしかない。

 アニメーションはストップ・モーションの連続でしかない。動画もまた同様である。しかし、われわれは途切れることのない連続した実際の運動と、ストップ・モーションの連続の違いを認識できない。例えば、われわれの視覚認識自体も眼球から入った視覚情報を脳が再構成しており、Kanizsaの三角形のようにないものが見えたりするわけで、悪く言えば脳のでっち上げとも言える。換言すれば、脳がそういうシステム構成になっているとも言え、これが人間の主観の先天的形式である。

 つまりは、先天的形式であるイネイト・インテリジェンスが、サブラクセーションを生み出す根源は、われわれが科学こそ、最も正しく事物を表すに間違いはない、と考えるところと同根であるのかもしれない。実現実である人体の運動と脳内の運動制御の間に齟齬(そご)が生まれ、本来的な動きに偏りの生まれるのかもしれない。
 


木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC)で長年、理事、副会長兼事務局長を務める
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 理事

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