代替療法の世界 第30回「千両みかん」
物の価値
物の価値とは需要と供給で決まる。これは経済の常識である。平たく言えば、欲しい人がたくさんいて物が少なければ値段は上がるし、逆に欲しい人が少なくて物が多ければ値段が下がる。
さて、タイトルの「千両みかん」、古典落語の一席である。ある若旦那が「みかん」を食べたくて、食べ患いの病気になる。夏の暑い盛りに「みかん」はない。番頭さんが「みかん」を探し求めて、なんとか1つを見つけるのだが、なんと値段は千両。あまりの値段に大旦那に相談するも、「それで息子の命が助かるなら、安いものだと・・・」。
「みかん」を手に入れた若旦那は10房のうち7房を食べ、すっかり元気を取り戻す。残り3房を番頭さんに手渡し、「番頭さんと両親で分けて食べて」と言う。1房100両、3房で300両。ただの「みかん」なのに・・・。「これには価値がある」、そう思った番頭さんは「みかん」を持ったまま行方不明になるという、意味深なオチの一席である!
あなたにとって価値あるものは?
物の価値は人によって様々だ。翻って「カイロプラクターのための栄養学」に目を向けると、まさしくそれ。第Ⅲ期終了まで都合10回の栄養学の話が聴けた。和泉DCは「個別の栄養学に目を向けることも必要だが、大まかな視点で栄養学を見つめ直すことがより重要である」として、10回目はそれまで過去9回の「まとめ」を行った。
何が重要であるのかハイライトで紹介した。なぜ和泉氏が栄養学に目を向けることになったのか? 駆け出しのカイロプラクターだった頃、同僚の女性が癌になったそうである。彼女は癌の3大療法を受けずに治った。カイロプラクティック以外で治す力を目の当たりにする。その出来事は、和泉氏の治療に対する価値観を変えるには十分であった。ここから和泉氏は自然治癒力を発現させるものの正体に迫っていくことになる。
常勝無敗の栄養学
勝つべくして勝つ。これは勝利の方程式である。勝つには勝つ理由がある。これは孫氏の兵法の中でも触れている。勝つためには「予後がどうなるか?」を予測できないといけない。和泉氏の栄養学にはそれがある。ホメオスタシス、日本語に訳すと生体恒常性となろうか。
1929年に米国の生理学者ウォルター・キャノンによって提唱された。生体の内部環境を一定に保つという仕組みである。この一定に保つというのがポイントであり、生命維持に関わるところを守るために、どこかを削るのである。この考え方はホメオスタシスを裏側から見た視点でもある。そして病気にはホメオスタシスが深く関与する。
ストレス説のハンス・セリエも「病気とは、体を犠牲にしてでも恒常性のバランスを保とうとする戦いである」と定義している。必勝するにはストレスを軽減させることが重要になる。ストレスを軽減させる方法論の1つが栄養学なのである。
DDも重要性を認識!?
DDパーマーが定義したサブラクセイションの原因。外傷、毒、自己暗示、この3つがサブラクセイションをつくると創始者が述べている。これを踏まえると、サブラクセイションをつくり出している原因の除去をすれば、サブラクセイションはなくなることを意味する。
栄養学はDDが言った毒のことである。食べ物は栄養にもなるし、毒にもなる。生活習慣病を思い起こせば、摂り過ぎは毒ということも理解できるだろう。身体は内部環境を一定に保つために、細胞組織から必要な栄養素を奪い血液中にばら撒く。だからホメオスタシスが病気の原因をつくり出す理由になる。
恒常性を維持するために他の組織を踏み台にする。なんとも不思議な現象だと思うが、人の身体はそういう風になっている。だから、その法則に従って処置をすると上手くいく。であればホメオスタシスの過剰な働きが、できるだけ起こらないようにすれば良い。具体的な方法論は和泉氏の過去の動画を視聴すれば理解できるだろう。
代替療法の価値観を上げ、独り勝ちに
冒頭の「千両みかん」を持ち逃げした番頭さんは年季明けも近く、のれん分けをしてもらう予定だった。のれん分けでもらえる金銭は約50両。何十年も働いてきてもらえる金銭が「みかん」1房の半分である。番頭さんは、金銭の価値観、汗水たらして働く意味がわからなくなったのではなかろうか、と推察する。であるから、ただの「みかん」を持ち逃げしてしまったのであろう。
価値観は人それぞれである。代替療法を頼ってくる人々は、健康が一番の宝物と思っている御仁も多いことだろう。そうした価値観を持つ患者が代替療法の適応になるし、コアなファンになる。和泉氏の言葉を借りると、「そこには同業他者との競合などは起こらない」、だから独り勝ちの状態になる。
私にとっては「千両みかん」、家人にとっては!?
家人の機嫌が悪いとき、私の大量の本に必然的に矛先が向き「捨てろ」と言ってくる。私が死んだら家人にとってはゴミの山だから、気持ちもわからんでもないが、私にとっては「千両みかん」なのである。古典落語には共感する部分も多い、この話はコレクターの心理、いや真理をつく一席でもある。身につまされる話だ。ドキッとした方は家人とのコミュニケーションを十分に取られたし。
山﨑 徹(やまさき・とおる)
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