「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第13回
イネイト・インテリジェンスを探して(12)

ドイツ観念論・カント 2

 先の「コペルニクス的転回」では、主観によって認識の対象が生じている。だからと言ってヒュームのように、すべてを懐疑してしまうと我々は拠り所を失ってしまう。結局は何のことかよくわからないということで終わってしまう。

 そこでカントは「物自体(Ding an sich:独、Thing in itself:英)=本体」という概念を生み出すこととなる。これは「現象」の対義でもある。我々が「物」や「現象」と感じているものは、我々の主観が直感や思考によって再構成されたもののわけであり、これをカントは「現象界」とした。

 そうすると、それ以前に我々の周辺に広がる世界には、実際に我々の感覚を刺激する「外なる何か」を想定することはできる。その「外なる何か」をカントは、「物自体」と言った。これにより、カントの哲学は単なる唯心論ではなくなり、懐疑するだけの浅薄な考察で終わらなくなる。驚くべきことに、この「物自体」という概念は、合理論とも経験主義ともぶつかり合わないどころか、むしろその上をいく。

 合理論の根底にある神の概念においても、我々が神をそのままに認識理解できないということと同じくで、スピノザの汎神論的な考えに基づけば、「物自体」という考え方は合理的でさえある。

 また経験主義においても、「物自体」をそのままに認識できなくても、経験を蓄積することに何ら問題はないわけで、その経験が我々の現実実在性に齟齬を与えなければ、それでよい。また主観によって認識の対象が生じているとすれば、経験の多様性の根拠にさえなる。

 さらに一方では批判にもなる。例えばロックの場合、我々の心が対象を具体的に捉える一次性質と、一次性質に基づき感覚が生じる能力の二次性質に分けたが、カントではこれが分断される。前回は、先験的な認識のあり方の一つとしたライプニッツのモナドなどは、モナド自体を「物自体」と考えることもできる。この場合、ライプニッツにおいては、人間の知性がモナド=「物自体」をいずれ捉え得るとしているのに対し、カントはそもそも認識不能としている。つまりカントにとっては、ライプニッツの言っていることは、一つの壮大なSFのようなものでしかないとも言える。

 ただ、この「物自体」という考え方は、デカルトの分断以上に自然界と我々の間には二元論的断絶を生むこととなり、のちのち大いにもめる元となった。ヘーゲルなどがなんとかこれを一つにしようとして、ドイツ観念論の発展につながっていく。

 さらにドイツ観念論のあと、実存主義やその後の構造主義、ポスト構造主義、また論理実証主義やプラクマティズムとか、フッサールの現象学、そこから派生した心理学や認知科学などの発展に続くかたちになる。さらにはマルクス主義もドイツ観念論に影響を受けていると言われている。個人的には、近代の西洋におけるオカルティズムの発展にも寄与しているのではないかと感じている。
 

 さて前置きはこれくらいにして、「物自体」について考えてみたいと思う。カントの考えでは、従来思われてきたように物があるがままに現れて、それを直接認識できるわけではないが、その我々の感覚を刺激して、経験を生み出す「物自体」は経験のための前提として、どうしても措定しなければならないものであった。

 しかるに我々には、この「物自体」そのものを経験する術がなく、認識する方法もなく、また、「物自体」は存在するにあたって、我々の主観には全く依存しない。さらには「物自体」が、我々の知る因果律に従うかどうかもわからない。結局、「物自体」の世界が存在するといういかなる証拠もなし、知的な秩序があるかどうかもわからない。

 要するに不可知だとしたわけである。しかし、これは単純な不可知論というわけではない。「物自体」は厳然として存在し、我々の知覚に受容されているわけである。この辺りは、量子力学の観測をするまでわからないとする、コペンハーゲン解釈や、互いに観測不能な平行世界を想定するエヴェレット解釈と似た状況になっている。

 そしてカントは、この「物自体」を我々が「自由」と呼ぶ概念と結びつけることになる。我々が「行為」を行うとき、それは「自由意志」によって決定されるが、「自由意志」自体は現象が生じる以前から先験的に存在しており、現象界に属してはいない。つまり我々の「自由意志」は、我々の身体そのものと同様に、生まれながらに有しているものである。

 そして、生まれながらに「自由意志」があるとすれば、その存在は認識によって生じる外的な現象界に対して、純粋な理性によってのみ把握できる内的な理念的な世界である叡智界=可想界にあるとした。

 この場合、現象界の因果律によって「自由意志」の存在を証明することはできない。また「自由意志」は、そもそも因果律よりも上位な存在で、「自由意志」とは意志によって自由にどのような因果律を選択するかと言うようなものであり、その意味では「自由意志」を我々が認識した場合、そこには道徳的な責任が生じることになる。ここで踏まえておかなければならないことは、先験的な「自由意志」と我々が認識した「自由意志」は別物だと言うことである。

 1980年代にベンジャミン・リベットによって行われた、有名な脳活動と知覚の関係についての実験で、彼は任意の時間に被験者に手首を曲げてもらい、その準備電位とそれに関連する脳の活動を観察した。

 そして、行動の意図が被験者にいつ生まれるかを決定するために、時計の針を見続けてもらい、動かそうとする意志が生じたときの、時計の針の位置を報告してもらった。その結果、被験者の脳の準備電位活動が、意識的に動作を決定するおよそ0.5秒前に開始されることを発見した。

 この場合、主観的経験は時間を逆行して繰り上げられており、実際の決定がまず潜在意識でなされ、それから意識的決定へと翻訳されている可能性を示唆している。この発見により、「自由意志」はないということにまでなった。しかし「自由意志」が「物自体」であれば、自由意志および潜在意識や表在意識という概念は、単なる認識の違いに過ぎず、「自由意志」の知ったことではない。
 

 さて、この「物自体」であるが、物というと石とか鉄の塊みたいなものを連想しがちであるが、「物自体」とは変化しない固定的なものではない。それは自然界の事物一般であり、カイロプラクティック的に言えば「ユニバーサル・インテリジェンス」と言える。そうすると、我々の「身心」も本来その範疇に入る。ならば「イネイト・インテリジェンス」もまた「物自体」と言える。

 「物自体」は認識の外にあり不可知である。「イネイト・インテリジェンス」が「物自体」であれば、それは不可知であり、我々は「イネイト・インテリジェンス」そのものを認識できないし、言語化できない。認識された「イネイト・インテリジェンス」と、真なる「イネイト・インテリジェンス」は別のものである。

 例えば目の前にあるリンゴの色や形、また食してみたときの味などで、リンゴとはこういうものだと認識したところで、それは知覚を通して感じたリンゴでしかなく、「リンゴそのもの」については、何もわかっていないというのが「物自体」という考え方である。しかし、これだけでは非常にわかりにくい。我々の認識の拠り所である経験的実在性を否定することは難しい。

 では「脳」を考えてみてはどうだろうか? それが人間の「脳」だとして、「脳」の外観や解剖を通して、果たして「脳」について何がわかるのだろうか? 今現在生きている「脳」と、死後解剖で取り出された「脳」は同じものだと言えるだろうか?
 

 「物自体」の概念は、我々が事物を相即に認識理解することができないことを示しているが、同時に我々は我々の「身心」を相即に認識理解することができないことを意味する。しかし、それは我々の「身心」が、我々の「身心」および事物に対して相即に対応できないということを意味していない。

 先に言ったように我々の「身心」が「物自体」であるならば、「物自体」の世界と我々の「身心」は相即に存在している。例えば、我々の記憶には「陳述記憶」と「非陳述記憶」があるが、ご存知のように言語化できる記憶と言語化できない記憶であり、頭で覚えたものと身体で覚えたものの違いである。

 つまり我々は頭で覚えた認識による世界と、身体で覚えた感覚による世界の二つに住んでいる。言うまでもなく、感覚による世界での対処は頭で認識してから行われるものではなく、身心即応に対処される。

 宮本武蔵の五輪書に「観」「見」というものがある。「見」とはいわば「直感」であり、感覚そのもの、つまり身体能力に依存すると言っても良い。「観」は「直観」であり、仏教の「阿字観」や「入我我入観」のように、単に意識するというようなものではなく、身心全体で観じるもので、鍛錬によって向上できるものであろう。

 これは東洋的な手法により、カントの言う「物自体」を「身心=物自体」で相即に捉えようとすることのように思われる。いずれにしろ、「物自体」が固定的なものではないことは自明で、「物自体」は変転する。仏教的に言えば、これは「無常」である。「恒常性」のように「常」と言えるものではない。
 
 我々の「身心」が「物自体」とすれば、カント的には不可知なものであるが、我々は本質的に自身の「身心」、つまり「物自体」と相即である。しかるに、いつの間にか「認識上の現象界の心身」を、自己の心身と捉えてしまっているのではないか?

 そもそも不可知である「身心」を、何も捉えようとせず生きているのではないか? ならば、「イネイト・インテリジェンス」とは、どのように捉えれば良いのか? その答えは、次回カントの考えを継承したショーペンハウアーの哲学にあるように思う。

参考文献
  • https://ja.wikipedia.org/wiki/物自体
  • 「カント哲学における物自体について」赤松常弘
  • ユーザーイリュージョン トール・ノーレットランダーシュ 紀伊国屋書店 2002

木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員

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