「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第12回
イネイト・インテリジェンスを探して(11)
ドイツ観念論・カント 1
イマヌエル・カントはドイツの哲学者である。正確にはカントは、ドイツ観念論の哲学者とは言えないが、便宜上ドイツ観念論で括ってある。カントは、人間の心の内に生まれながらに備わっている、生得観念の存在を主張する大陸合理論、および人は生まれながらに何も持っておらず、経験によってのみ認識が生じるとする、イギリス経験主義に対して、異なる考え方を提示した。
カントはまずヒュームの影響を受け、独断を回避するためにいろいろ懐疑する。著書「プロレゴメナ」の序文で、「私は率直に告白するが、先に述べたデイヴィッド・ヒュームの警告こそ、十数年前に初めて私を独断論のまどろみから目覚めさせ、思弁哲学の領域における私の研究に、それまでとは全く異なる方向を与えてくれたものである」と言っている。しかし、その一方でヒュームが「哲学を独断論の浅瀬に乗り上げることから救ったが、懐疑論という別の浅瀬に座礁させた」とも言っている。
カントにおける人間の認識方式としては、「直観」「感性」「悟性」「理性」の四つがあげられる。
「直観」とは、対象に対して直に感じる知覚の統合である。
「感性」は、対象から得られる表象、いわばイメージのようなものを得ることと言える。
「悟性」とは、対象を理解することで対象を構成する能力とも言え、これにより概念が生まれる。そして、この「悟性」による認識が他者の理解と共通していることにより、文化や学問が発展する。これは経験主義的な考え方である。
しかし、一方で「神」のようにある種存在するが、認識も経験もできないものがあり、神が存在する世界もまた、認識も経験もできないことになる。そういうものもまた、人類の間で共有され、宗教などが生まれることになる。ここから、単純に認識および経験できるものだけが、存在するわけではないことが明白になる。そして、これを明白にするものを「理性」とした。これは合理論的な考え方である。
さらにカントは、自らの超越論哲学(先験哲学)において、生得観念という言葉は使わず、先験的(ア・プリオリ)な形式という概念を導入していく。超越論的とは、いかにして我々は先天的認識が可能であるのか、その可能性と根拠について論理的に問うことで、経験によってものごとを認識するときに、経験に先んじてそうしたものごとの認識がどうして可能なのか、それを可能にしている条件や根拠は、何かを考えるようなことを指す。経験による論理を超越した論理というような意味で、「超越論的」と言い、経験において時間的にではなく、論理的に先んじているということから、「先験的」とも言う。
これだけではわかりにくいので、永井俊哉氏の説明を借りれば、「自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。限界の内部にいる人には、限界が見えない。限界を超越して初めて、限界を認識することができる。認識の限界を認識することは、超越を論じることであり、超越論的である」というようなことである。
つまり、経験の成立条件を問う際に成立する認識は超越論的と言える。これはライプニッツのモナドという実体を、先験的な認識のあり方=ア・プリオリな形式というものに置き換えたものとも言えるかもしれない。
カントはこれらの考え方を熟考し、有名な3批判書「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」を書いて、いわゆる批判哲学なるものを展開した。これらはそれぞれ、「私は何を知りえるか?=真とは何か?」、「私は何をなすべきか?=善とは何か?」、「私は何を望みうるか?=美とは何か?」という問いに対するカントの回答であると言われる。
批判哲学の基礎として、避けて通れないものに「二律背反・アンチノミー」がある。カントは「純粋理性批判」で、4組のアンチノミーを挙げているが、要は一つの定立命題と、それに対立する反定立命題が、ともに「真」となり得ることが問題となる。いわゆる伝統的な論理学では、互いに矛盾し合う命題が同時に「真」であることはあり得ず、一方が「真」ならば、他方は「偽」とならなければならない。
カントの第一の二律背反は、「世界は時間的に端緒を持ち、空間的に限界を持つ、即ち有限である(定立命題)」と、「世界は時間的に端緒を持たず、空間的に限界を持たない、即ち無限である(反定立命題)」であるが、この対立する命題は、ともにそれぞれが真であることを主張し合うことができる。
細かいことは成書に譲るが、結局この「二律背反」には、何らかの誤謬が潜んでいることをカントは指摘する。上記の命題は一方が真であれば、他方は偽であるという矛盾対当のように見える。しかし、両者とも偽である反対対当であるとすれば、この二律背反は解消する。それを証明する能力は我々にはないが、もし両方とも「偽」であるならば、そもそも「世界が有限である」とか「世界が無限である」という概念自体が間違っている。なぜ間違っているのかと言えば、我々(の理性)がそういった概念を勝手につくり出しているからである。
このような二律背反の過ちを犯すのは、「理性」であるというところから、先の3批判書からなる批判哲学が展開されることになる。
「二律背反・アンチノミー」に似たものに仏教の「無記」がある。カントは「二律背反」を「退けることもできず、だからといって答えることもできないような問い」と言ったが、釈尊は真理に関係ないとして一気に飛び越えてしまった。そして「無記」と言えば、維摩詰の「一黙雷」を思い出す。
「維摩経」で、維摩居士と文殊菩薩が下記のような問答をしている。
維摩「菩薩が不二の法門に入るとは、いかなるか?」
文殊「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えていること。これを不二法門に入るとなす」
・・・と言って、今度は維摩詰に見解を求めた。そこで維摩詰は・・・
維摩「・・・・・・・・・」
文殊「まさしく文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る。」
不二法門とは、互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではないということを説いている。文殊は維摩詰が何も言わないこと=「一黙雷」で、それを体現して見せたのだと言う。
この維摩居士の一黙雷や、有名な釈尊の淵黙雷声から、さらに思い出されるのがウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の最後の言葉「語り得ないことについては、沈黙しなければならない」である。だいぶ脱線したが、これらの言葉に関しては様々な書籍があるので、これ以上言及はしない。ただ、イネイト・インテリジェンスもまた、沈黙により語らなければならないものかもしれない。
さて、二律背反があるから理性はそのままには信用できないと言える。そこでカントは「純粋理性批判」で、認識論に「コペルニクス的転回」と呼ばれる大きな変革を与えた。カントの考え方が、大陸合理論ともイギリス経験主義とも異なる最大の点は、従来の哲学が人間にとって、物体なども含めた外部事象について考えるものであったのに対し、カントは哲学を人間そのものについて考える学問として定義し直し、哲学の目的を新たに構築し直したためとされている。
これにより、哲学史的にはカント以前、カント以後というような表現が生まれ、「カント以前の哲学はすべてカントに流れ込み、カント以後の哲学はカントから流れ出る」とも言われているほど、多大な影響を哲学に与えた。
カントの言う「コペルニクス的転回」とは、端的には認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うとする考え方の転換である。従来では、そもそも外の世界に存在している事物を、我々の主観が受け入れることによって、認識が成立するとしている。平たく言えば、外部の対象を我々の主観に映すことで、ありのままに認識できると考えている。
これを逆転させ、認識の対象である世界そのものが、主観によって構成されているとするわけである。つまり、主観の先天的な形式(ア・プリオリな形式)=誰もが持っている人間の普遍的な意識の構造に則って、もともと主観が構成したものであり、主観によって世界を生み出しているということになる。
カントは、これを天動説に対して地動説を主張したコペルニクスの立場になぞらえ、自分の認識論上の考え方を「コペルニクス的転回」と言った。人間の普遍的な意識の構造というのは、端的には空間とか時間などの概念は、何かを経験する以前から誰もが同じように認識するので、人類そのものが生まれつき持っている先天的な形式(ア・プリオリな形式)であろうというようなことである。
要するに、理性が二律背反のような矛盾を生むのは、理性が世界をそのままに映しているのではなく、不完全な理性が世界をつくり出しているためだとも言える。この辺りは最近の脳科学の知見と似た状況になっているが、これは逆で脳科学とか認知科学というものが、元をたどればここにたどり着く。
仏教的に言えば、唯識のような感じにも見える。ここから言えることは、イネイト・インテリジェンスが不二の法門のごとく真なる存在であれば、我々が頭でイネイト・インテリジェンスをわかろうとしても、あるいは言語で説明しようとしても、それは無理だということでもある。また、我々の言うイネイト・インテリジェンスが頭でつくられたものなら、二律背反が生じても無理からぬことであり、そもそも真のイネイト・インテリジェンスを表現する術を持っていないということになる。
では、イネイト・インテリジェンスとは何なのか?
次回は、カントの考え方から、それを探ってみたいと思う。
参考文献
- 超越論的認識とは何か
永井 俊哉ドットコム
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2000/transcendental-recognition/ - 長崎大学総合環境研究 第8巻第2号pp.153-163 2006年8月
最終講義「カントの『真善美』の哲学について」 井上 義彦 - 近代哲学の祖、カントが唱えた批判主義と道徳とは?
【四聖を紐解く②】 朝倉 輝一
https://www.toyo.ac.jp/link-toyo/culture/immanuel_kant/
木村 功(きむら・いさお)
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員
コメント
この記事へのコメントはありません。
この記事へのトラックバックはありません。