「イネイト・インテリジェンスとは何か?」
第4回 イネイト・インテリジェンスを探して (3)
大陸合理論・スピノザ
バールーフ・デ・スピノザの哲学に賛同するカイロプラクターは多いと思う。スピノザの考え方はいわゆる一元論的汎神論である。これはすべてのものに神が内在しているというよりも、すべてのものはすべてを包含する神の一部であるという考え方である。こうしないと異端者として死刑になったりする。実際、スピノザはユダヤ教の信者によって暗殺されそうになったこともある。
いずれにせよ神を人格神としないわけで、そういう意味では祈っても救ってくれないと言えるので、異端ではある。これは結構大きな問題で、そのためスピノザはかなり不遇な人生を送ったが、己の信念を曲げることはなかった。
スピノザの言うデウス・スィウェ・ナトゥラ(deus sive natura)とは、「神即自然」または「神あるいは自然」という意味で、時間的に永遠で空間的に無限である宇宙の、総体としての自然と同一の存在(個々の存在は有限であっても)が、神であるということである。仏教的に言えば「一切衆生悉有佛性」に近い。
それは当然、われわれの中にもあり、それが生得観念だということになる。つまり、生得観念と神は同一であるので、完全にして無限ということである。そして、生得観念と同一のものが肉体にもあるということになる。
彼の死後に出版された「エチカ」(ラテン語で倫理学)では、万物には自分を存続しようとする力「コナトゥス」があり、端的にはこの力を強化促進してくれるものが善とされ、これに対して別のものが外部から害をもたらすとすれば悪であるとする。この考え方は、古典的なイネイト・インテリジェンスとサブラクセーションの関係に近いと思われる。つまり、この善悪は精神のみではなく肉体にも言えることになる。
スピノザの倫理とは、人間が社会から与えられる義務のような単純ものではなく、理性によって自然における神の属性を、認識する直観知を獲得することによってのみ得られるものであり、そこに本来の自由があるとするようである。これは人体についても同じことが言えることになる。
「コナトゥス」とはアリストテレスの頃からある概念で、精神と物体の両方における方向性のようなもので、物体においては慣性や運動量保存則と等しい。デカルトは物理的にはこれを遠心力と求心力の二つに分け、自己保存の概念として捉えている。スピノザは人間の自由意思を「コナトゥス」に置き換え、人体を含む一切の自然に適用できる原理としている。つまりは、すべてを必然であるという一元論的決定論に基づいて、自由意思を否定している。これは本質的には異なるが、後述するショーペンハウアーの考え方の元型のようにも見える。
デカルトが区分した心身の断絶をスピノザは断絶とはしない。同じ存在における裏表のような二つの側面でしかない。精神も身体も互いに独立して存在するのではなく、身体の状態と精神の状態は、常に対応している一つの存在の異なる側面でしかない。
つまり、精神と身体は互いに独立して因果関係のない別のものであるとする、いわゆる心身平行論を取りながら、精神と身体は同一のもの、要は自然というものの本質における二つの表現として考えている。
心という側面から見れば自然あるいは宇宙は精神であり、身体という側面から見れば自然あるいは宇宙は物質であるわけで、精神の持つ理性と物質の持つ秩序は同一存在の二つの側面であるため、本質的に一致するということになるらしい。その意味では、一元論的汎神論ではすべてのものは、そもそも完全であるということになる。
これはユニバーサル・インテリジェンスと、イネイト・インテリジェンスのわかりやすい元型にも見える。人体も精神も神と同質であるので、本質的に完璧なものでなければならない。
ここで言えることは、当然のことながら不完全が先に認識されることはないということである。完全があって初めて不完全であると理解できる。不完全しかなければ、それが通常であると考えるのは当たり前のことで、当然健康も同様で、健康というのがどういう状態か理解できて、初めて不健康とか病気とか言えるわけで、異常だけ見ていても正常はわからないし、どうすれば正常になるのかもわからない。
デカルトの言うように、元来われわれは生得的な概念として理想的な完全・完璧を捉えている。しかし、不完全しか知らない者が、完全なものを語るというのはどういうことなのか? そもそも、われわれの考える完全や完璧とは、妄想に近いものなのであろうか? あるいは、われわれの考える完全や完璧が、本当に完全や完璧と言えるのだろうか?(それを別の角度から考えたのは、あとで説明するイギリス経験論である)
一切が神そのものであるスピノザにとって、病気も障害も完全なものの一つの表れである。つまり、病気も障害も本質的に完全性を有するということになる。スピノザにとって一般的な完全・不完全概念は、本質的に取り違えられたものであると言える。これは先の「善悪」の関係にも言え、また正常・異常についても同様で、正常というものが善で、異常が悪と単純に割り切ることはできないことになる。そこにスピノザの倫理がある。
スピノザの神について考え、それに伴ってイネイト・インテリジェンスを考えるとき、どうしても対比してしまうのは、「梵我一如」インド哲学のブラフマン・アートマンである。
アートマンは真我とも言い、常一主宰(=永遠に変化せず《常》、唯一のものとして独立自存し《一》、本質的な自己の主体であり《主》、自己のすべてを司る《宰》と言われる実在を意味し、これが輪廻転生する。これはブラフマン(宇宙の根本原理)と同一であり、生滅する一切の背後にある永遠なる真の実在であるとする。この辺りはスピノザの神の概念と非常に似ている気がする。
このような考え方を「本質主義」と呼んだりするが、要は対象に固定的で不変な核があるとする立場である。これはイネイト・インテリジェンスにも当てはまる立場であるが、当然批判もある。端的には固定的で不変な核があると捉えることは、本当に妥当なのかという問いである。
最も単純なところでは、イネイト・インテリジェンスが完璧なものなら、なぜサブラクセーションが生じるのか、あるいはアジャストメントなしで、なぜサブラクセーションを治せないのかという問題である。これに関しては、スピノザの神が現代科学にどのような影響を与えてきたかを見るとわかるように思う。
ご存知の方も多いと思うが、アルベルト・アインシュタインは「あなたは神を信じるか?」と質問され、「私はスピノザの神を信じている。それは、この世界の秩序ある調和の中に自身をあらわされる神であって、人間の運命や行動にかかわる神ではない」と言っている。これは1921年にユダヤ人であるアインシュタインが、ニューヨークのユダヤ教の会堂で語ったとされる言葉であり、手紙にも書かれている。
万物そのものに神を認めるエレガントな自然と、その自然界・宇宙を支配している物理法則に完全なる調和を見出すことが、アインシュタインの求めた科学であったと思われる。また、アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言ったのは有名であるが、この神というのはスピノザの神であろう。この「神はサイコロを振らない」というのは、ヴェルナー・ハイゼンベルクの不確定性原理に基づく量子力学を批判した言葉である。
アインシュタインは、観測される現象が元々決定されていないということに納得できず、すべての出来事は決定論で説明でき、真理は人間の認識とは無関係に厳然と存在し、誰も見ていなくても月は存在しており、見上げたときだけに月が存在するなどということはないというように、世界はあるがままに存在しており、存在自体があったり、なかったりなどということはあり得ない、という素朴実在論の立場を取っている。
この「神はサイコロを振らない」という言葉に対して、量子力学の育ての親で、ハイゼンベルクと共にいわゆるコペンハーゲン解釈を提唱したニールス・ボーア(母親がユダヤ人)は、「神に何をなすべきか、何をなさざるべきかを、あなたが語るべきではない」と反論しているが、ボーアの神はアインシュタインと違って、ユダヤ教元来の神かもしれない。そもそも、スピノザの神はサイコロを振りようがない。
ついでに説明してしまうと、不確定性原理というのは電子などの運動量と位置を、同時に正確には測ることができないという原理で、「本来決定されているが観測するまでわからない」ということではなく、「観測されるまでは様々な可能性の重ね合わせの状態にあって、なんら決定されていない」とするのが、ボーアなどが提唱したコペンハーゲン解釈である(他にもエヴェレット《多世界》解釈、ド・ブロイ–ボーム《パイロット》解釈などがある)。
これに対して、アインシュタインは「本来決まっているが、現状では人間にはわからないだけであり、そこには波動関数に記述されていない未知の隠れた変数(実験者が観測できない変数)があるため観測するまでわからないのだ」という『(局所的な)隠れた変数理論』を提唱した(ド・ブロイ–ボーム解釈は、非局所的な隠れた変数を仮定したものであるため生きているが、計算が面倒すぎるので、同様の結果を生むコペンハーゲン解釈やノイマンの標準解釈のシュレディンガー方程式を使うのが一般的となった)。
アインシュタインの考え方は、先の素朴実在論とともに「ある地点で行われた行為や起こった現象によって、遠くの実験結果が直ちに変わることはない」という「局所性」を基本としている。この局所性が破れてしまうと、「原因の結果が光より早く伝播することはない」という相対論的な因果律に反することになり、異なる慣性系から見ると原因と結果の順序が逆転してしまう。この局所性と素朴実在論を仮定して記述された物理の考え方を「局所実在論」と言う。
このような考え方に基づき、1935年にアインシュタイン、ボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンが、その頭文字をとったEPRパラドックスというものを論文提示した。正しい説明になるかわからないが、スピンしていない素粒子が崩壊して、電子と陽電子を放出したとすると、この二つの粒子は異なる方向に飛んでいく。そして、誰かが一つの粒子のスピン方向を観測した途端、もう一方の全く別のところ(例えば宇宙の反対側)にある粒子のスピン方向も決まる。これを波束の収縮と言ったりするらしいが、このようになるのは量子もつれがあるからだと言われる。
量子もつれは、二つの量子のスピン方向が、観測されるまですべての方向にスピンしているような重ね合わせの状態(あるいは全く未知の状態)にあり、一方の量子が観測された途端重ね合わせが収縮し、他方の量子のスピン方向も一つに定まるという感じのことと思う。そして、この相関はどれだけ離れていても関係ないため、光速を超える相互作用という点でパラドックスになる。
先の局所実在論が満たすべき相関の上限を与える式が、1964年にジョン・スチュワート・ベルによって導かれたベルの不等式で、 量子力学ではこの上限を破ってしまうことが実験で証明され、そのため局所的な「隠れた変数理論」は否定された。
そのため「EPRパラドックス」は、現在「EPR相関」と呼ばれ、実際に起きる相関関係と理解されている。量子に関する情報は光速より速く瞬時に伝わるため、非常に高速な量子コンピューターの可能性が生まれるわけである。
しかし一方で「(非局所的な?)隠れた変数理論」に対する賛同者もいる。オランダの理論物理学者ヘーラルト・トホーフトは、古典的なシステムと量子的なシステムの決定的な違いは、情報の損失の有無だと主張する。古典的なシステムが、摩擦のようにエネルギーを空間に散逸させる力によって情報を失い、その結果、量子的に振る舞うようになるという。また理論物理学者のハドレーは、過去だけでなく未来に起きる出来事が現在に影響すると考えることで、量子現象を古典的に説明できるとしている。量子力学現象が確率的なのは、未来に起こることを私たちが知らないせいだと言う。
長々説明したが、結局、科学はあるレベルでわからないことがあり、わからないなりに使い物になっているということは、本当の原理がわからなくても、結果が予測通りになれば問題ないということになる。こういうことはウィトゲンシュタインやクリプキなどの言っていることでもあると思われる。また、原理がわからなくても結果に再現性があれば問題ないというのは、科学・哲学にも提示される問題である。これらについても、またあとで述べることとしたいと思う。
前述したイネイト・インテリジェンスが完璧なものなら、なぜサブラクセーションが生まれるのか、あるいはアジャストメントなしでイネイト・インテリジェンスはサブラクセーションを治せないのかという問いに関しては、一元論的汎神論による回答であれば、サブラクセーションは神である自然の調和の結果であり、ある調和が全体の不調和を生じさせることはあり得ないことではない。
不調和とは自分を存続しようとする力「コナトゥス」が、外的要因で阻害されている結果の調和という決定論的な考え方であれば、阻害に対してより強い耐性が生じるようなアジャストメントを行うことで、より高いレベルの全体的な調和を生むということになるのかもしれない。本質的はサブラクセーションによる不調和さえも、スピノザの神(=イネイト・インテリジェンス)によって定められた調和そのものであると言える。
対して、アインシュタインが納得できなかった量子力学的な考え方では、あらゆる可能性が存在している人体において、サブラクセーションはイネイト・インテリジェンスが収束した一つの観測結果であり、このサブラクセーションとは無関係にあらゆる可能性を持つイネイト・インテリジェンスが存在しており、アジャストメントがサブラクセーションではなくイネイト・インテリジェンスに対して変動を与えることで、本来の重ね合わせの状態に戻るのではないか、あるいはまた異なる収束に向かうのではないかという、通常では理解に苦しむような回答になるのかもしれない。
つまり、アジャストメントはサブラクセーションを取り除くのではなく、コペンハーゲン解釈で言うところの量子観測前の状態に戻すことになるか、エヴェレット解釈のように別の世界分岐により新たなイネイト・インテリジェンスを生み出しているということになるのかもしれない。端的には現実の人体をインド哲学のサトル体・コーザル体や、神智学のエーテル体・アストラル体のように、量子的な人体(quantum body) として仮定し、捉え直すということになるのかもしれない。
話が余りにも外れて恐縮だが、スピノザの神を信じるアインシュタインの考え方と量子力学の考え方は、このように異なってしまう。
そして、量子力学の権威であるボーアやシュレディンガーは、東洋哲学に傾倒していっている。これについてはまた後に述べたいと思う。
ここでの結論は、スピノザの神と東洋哲学的な考え方はそれほど違わないのではないかと思われるのに、科学的な立場では言っていることが全く異なってしまう点である。
参考文献
スピノザにおける「完全性」について ―「健康」概念の再検討のために―
中野彰則 (大阪大学大学院文学研究科博士後期課程、哲学)
スピノザ哲学におけるコナトゥス概念の発展
ー「短論文」から「エチカ」へー
笠松 和也(東京大学哲学研究室「論集」34号)
〈Web〉
彼はいかにして思想家になったか―破門された若き日のスピノザ
西洋史における「破門」とは何か
吉田 量彦
NPO法人オール・アバウト・サイエンス・ジャパン(AASJ)
なぜスピノザだけが「エチカ=倫理」を書けたか?(生命科学の目で読む哲学書第17回)
日経サイエンス
特集:アインシュタイン「奇跡の年」から100年
やっぱり神はサイコロを振らない?
〈ウィキペディア〉
・コナトゥス
・梵我一如
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・コペンハーゲン解釈
・不確定性原理
・局所実在論
・ベルの不等式
・アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス
木村 功(きむら・いさお)
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員
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