イネイト・インテリジェンスとは何か?」第28回
イネイト・インテリジェンスの甦生(13)
(3)散逸構造4-2-3
矢が飛ぶということは、弓から放たれた矢が的に当たるまで空中を移動していることであるが、「飛ぶ矢の逆理」を破る上で重要なのは、瞬間において矢がどのようにあるのかではなく、弓から放たれた矢が的に当たるまでに、どのように矢が変化していったのかという時間的連続性にある。時間「0」があり得ないとすれば、時間は常に経過している。有限時間をどれほど無限に分割していこうとも、時間が経過している事実は変えられない。つまり、時間の分割単位などというもの自体が虚構であり、認識のための方便でしかないといえる。矢がどの位置にあろうが、時間が経過しているのであれば、エントロピーは増大している。
科学的にはエントロピーは示量性の状態量の一つであるが、現実的には単なる傾向ということもできる。これを仏教的に言えば、「矢は無常の中に存在している」と言えよう。対象である存在があって、時間が経過するのではない。時間の経過の中で存在は生まれ滅する。何もない空間の中に固有の存在が生じ、その存在によって時間が生まれるのであれば、その時間はその存在固有のものでしかない。また、空間が存在することにエネルギーが必要であれば、そこにはエントロピーが存在し、既に時間はあるわけで、空間自体が時間そのものであり、空間自体は生滅する。何もないとは、空間もエネルギーもない状態でなければならない。つまり、いかなる観察も不可能な状態であり、そこには時間の経過もない。
以前の述べたように、時間とはエントロピーの増大現象であり、不可逆な営みである。エントロピーの増大が対象ごとに異なるのであれば、空間自体の時間経過と、空間の中にある存在における時間経過は同じではない(EPR相関、すなわち量子もつれを考えた場合、時間の概念はさらに深刻な問題を提起するが、今は省く)。ただ、それぞれの時間が過ぎていく。そこにおいては、今この瞬間といった時点で、もうその瞬間は過ぎている。
存在が時間の中にしか存在できないとすれば、未来の存在は未だ存在に非ず、過去の存在は既に存在しておらず、現在の存在はいつ存在としてあるのか定かではない。つまり、時間軸においては、未来の非存在性・過去の無存在性・現在の不存在性が提示されてしまう。しかしながら、これらは、そもそも時空を分割し数値化するがために生まれた誤謬である。あるいは、人間の持つ記憶という能力が生み出すまやかしである。このような、哲学において陥りやすい、思索にとっての真実という戯言の中に埋まっても、我々は我々として厳にして確実に存在している事実に変わりはない。これは、イネイト・インテリジェンスやサブラクセーションにも言えることで、これらが妄想となるか、事実となるかは紙一重である。
さて、このような時間の中で構造が散逸するということは、生滅を繰り返しているとも言える。つまりは、仏教でいう「刹那生滅」である。時間の連続性とは、その状態が刹那に滅し、刹那にまた生じることである。矢がそこにあるとすれば、刹那に生滅を繰り返しており、一瞬前の矢と同じ状態の矢は存在しない。つまりは、不断に変化している。この状態とアニメーションの違いはどこにあるのかと言えば、どこにも停止というものがなく、停止状態を抜き出すことができない。矢は刹那に滅しており、刹那に生じるのであるから、停止することはできない。瞬間に停止しているということは、瞬間に不変であるということであり、いつの瞬間も不変であるということは、仏教で言えば「常住」である。しかし、仏法において一切が「無常」であれば、不変のものなどない。
前述のように、経過しない時間の中で矢の存在だけを取り出すと、矢は動かないことになる。この場合、存在自体が動きでなければ矢は飛ばない。時間が常に経過するものであれば、変化があるということであり、不変の存在がないのであれば、経過しない時間という仮定自体が虚偽となる。エントロピー増大が普遍なものであれば、どの瞬間であっても「どんなものもそれ自身と等しいものに対応している」という状態はあり得ない。矢は止まっていようが、動いていようが、常に変化している。どんなものも時間が異なれば、それ自身と等しいものに対応することはできない。
しかも、より速く動く方が変化は激しい。例えば、矢が大気圏外から大気圏に突入するように射られたとすれば、矢は地上に着く前に燃え尽きてしまうであろう。この場合、どの瞬間を取り出しても、矢がそれ自身と等しいものに対応している状態はない。燃え尽きていく過程では同じ状態はあり得ない。では、速度が遅ければ、そうはならないといえるであろうか? 法華経に曰く「三界は安きこと無し、なお火宅の如し」とあるが、生老病死があるように、我々が認識できない状態で、常に矢は変化している。そうすると、「飛ぶ矢の逆理」は逆になる。つまり、「静止している矢は、常に動いている」わけである。
時間は決して停止しないにも関わらず、時間の停止した状態を考えることは、閉鎖系の熱力学同様に現実にはありえない状態を仮定しているが、実際の作動は、時間的連続性の中にしかない。鳴門の渦潮は、一つの散逸構造である。これを静止画で見ても、眼前で見るダイナミックさはわからない。眼の前の渦潮には、システムの作動が生のままにある。静止画を連続して差し替え動画にしていくと、動きが生まれ、ダイナミックさの片鱗がうかがえる。これは静止画に人間が時間を与えると動きが生まれるということであろう。しかし、眼前で見る渦潮のダイナミックさと同じものとは言えない。
この生のシステム作動=ダイナミックさを別の言葉に置き換えれば、クオリアであり、ある種の質感であると言える。我々は、人体の運動を時間的に切れ目なく連続していると捉えているにも関わらず、それを科学的に考えるとき、離散的な飛び飛びの時間概念で捉えてしまう。つまり、実際はアナログ的であるのに、デジタル的に考えてしまう。瞬間、瞬間の物理量を特定して、その点を結べば現実と近似となると考える。そうすることで何がしか理解しやすいと思い込む。
熱力学、統計力学はともに、基本的には平衡系を取り扱ってきた。この平衡系の考え方は、アニメーションに似ている。アニメーションの一枚一枚のセル画をその瞬間の平衡系として考え、その連続で事物の有り様を捉えようとするわけである。しかし、人体は非平衡開放系である。結局、平衡系の考え方では、現実の一面を表しているとしても、「飛ぶ矢の逆理」が生まれるように、同時に何かを取り落としていることに他ならない。
同様に、人体において静止した解剖学的な構造を抜き出して考えるということは、解剖学的な構造が人体の活動と関係なく存在していると考えるに等しい。そこに悪しき還元主義の根源があるのではないかと思える。全体を分割して部分の正常や異常をみるのが還元主義であり、「弥蘭陀王問経」でナーガセーナ長老がいうように、そこからは全体性を見極めることはできない。
部分を見ていても、部分の中から全体性を観ずることで、カイロプラクターは人体の全体性、すなわちイネイト・インテリジェンスの状態を垣間見ようとする。その意味では、生化学的な数値や画像のみで診断をつけ、マニュアル的に薬剤を処方したり、オペを行う還元主義的な現代医学とは、全く別のものを観ていると言える。このような還元主義に陥りやすいものに、カイロプラクティック神経学がある。つまり、現代医学のテキストでマニュアル化しやすい。単純に患者をマニュアルに当てはめて、考えてしまう可能性がある。
しかし、科学新聞社でセミナーを行っている丸山正好先生の「局在神経学」は趣が異なり、カイロプラクティックと呼ぶに相応しい。患者の状態に応じた刺激を与えることで神経系にアプローチしながら、全体的な変化を求めるというイネイト・インテリジェンスを揺り動かす方法論を提示している。このように還元主義的なアプローチからでも、考え方と方法さえ選べばカイロプラクティックとしての全人的なアプローチを目指すことができる。逆に言えば、マニュアル化されているカイロプラクティック・テクニックは、得てして還元主義に陥り、イネイト・インテリジェンスを観ずることができない可能性がある。
モーション・パールペーションにおいても、下の椎骨に対して上の椎骨が、Aという位置からBという位置に動いたというような、それぞれの「位置」を捉えるのではなく、「動き」自体を見なければならない。つまりは、動きの量ではなく、質の方が重要であると言える。質が変わるというのは、動きになんらかの不連続性があり、比喩的に言えば特異点 singular point、あるいは臨界点 critical pointを有することである。特異点とは、もともと数学の用語で、特定の関数においてある入力値の連続に対し、常にそれに対応する出力値が滑らかに連続して現れる状態で、突然不連続になってしまう点を言い、いわゆる微分できない点である。物理学的には、平たく言えばブラックホールの特異点のように、ある法則内において法則が成り立たず、定義できない点である。
また、臨界点とは例えば気体が液化する相転移の境界点を言うが、言語の意味合いから考えれば特異点は、典型的な状態の基準変化から逸脱し、その部分だけ異なった振る舞いをする点であり、臨界点は従来の状態界から異なる状態界への転換点と考えることもできる。あるいは「strange point」や「odd point」「peculiar point」などと、呼ぶこともできるかもしれない。
その意味では、例えばニューロ・カロ・メーターは、皮膚温におけるアナログ・メーターの滑らかな振れの連続が、突然不連続になる特異点を見つけるためのものであるとも言えよう。ただ、局所皮膚温変化と人体システムの作動との関係性は不明確であるが、人体システムの作動の一部であるとは言える。しかしながら、長年使っているからといって、それが本当に妥当であるかどうかはわからない。
モーション・パールペーションも、動きを入力することで得られる、それに対応した椎骨の動きである出力状態を見る関数関係にあるとも言える。つまり、動きの特異点を特定するため、あるいは、ある運動の質が異なる運動の質に転移する臨界点を特定するために行われるとも考えられる。基本的にカイロプラクティックでは、特定の椎骨に動きの低下が見られた場合、従来の動きよりXYZ軸において、それぞれどの程度制限されているかというような、量的数値を想定してリスティングを出し、それに対応するだけの外力を与えることで椎骨の動きを取り戻すことをするわけではない。
この量的数値化によるデジタル的、つまり離散的なデータでは、動きの質の違いはわからないであろう。アナログ的な連続性のある質感が突然変わる部分=特異点に、本来の滑らかな入出力作動の不具合があると考えられる。この状態では、調和された、つまり円滑でより効率的な散逸構造の作動が阻害されているが、作動自体は破綻していない。より少ないエネルギーで、外部と調和して自己を維持しようとする人体における散逸構造的作動が「イネイト・インテリジェンス」であるとすれば、無理な効率化で作動に偏りを生じさしめ、その自由度を阻害しているものが「サブラクセーション」である。
「サブラクセーション」をカオス理論から考えれば、本来「有界内における非周期軌道」を取るものが、「周期軌道」を繰り返すような状態とも言える。ちょうどレコード針が飛んで同じところを再生し続けるようなものとも言える。これを換言すれば、「イネイト・インテリジェンス」自体が安定的な作動を続けるために、「サブラクセーション」を作り出し、自縄自縛的に自らの作動を制限してしまっている。つまり、偏った作動における効率化を目指すゆえに、多様な環境変化に対する柔軟性の低下した非効率な構造状態=システムを作り出している。
カイロプラクターが患者の全体性において、なんらか調和がないと感じられ、スクリーニングで脊柱にその責任があると判断した場合、脊柱運動の全体性の中において、動きに不連続性、つまり違和感を感じる部分をスキャニングしていくわけであるが、実際には人体というシステム全体の作動における特異点を求めているわけである。要するに、物理的に計測した脊椎骨の、Aという位置からBという位置への動きの量自体に違いがなくても、Aという位置からBという位置にいくまでの運動の連続性に齟齬があれば、質の違いとして捉えられ、そこに特異点がある。
この最も不連続性の高い部分=作動の質が異なる部分を特定し、そこにアジャストメントを加えることで、その構造状態が破綻すると、本来的な人体の散逸構造における入出力システムが安定していれば、システムは作動によって再び安定化する。この安定化は、生存のためによりエネルギー消費が少ない効率的な方向を目指す。すなわち「イネイト・インテリジェンス」が、身体を治すわけである。
このように考えた場合、リスティングとは現実的な椎骨の変位した位置を表すものではなく、椎体に対してアジャストメントのフォースを伝える方向を表すための、あるいは現状のシステム作動をスペシフィックに破壊して効率的に再作動させるための、一つのメタファーであると言えよう。カイロプラクティックでは、一つの骨の状態や一つの筋の機能などの改善により、人体というシステムの作動全体が変更されると考える。これはちょうどカオスにおける初期値鋭敏性を彷彿とさせる。初期値鋭敏性があれば、そのシステムがどうなるかわからないわけであるが、それはシステムの変化が支離滅裂で、破綻するのか良くなるのかわからないということではない。カオスは作動として、有界内における非周期軌道であるストレンジ・アトラクターを形成するわけであるから、カオスとはそもそもある範囲内で作動し、非常に安定したシステムであると言える。このとき、カイロプラクターは一部分を見ていても、常に散逸していく構造態である人体全体の可能性を見ていることになる。
エントロピーが最大にならず、常に増大方向に増減していく自然界の中では、停止した構造状態、停止したシステムというものは存在しない。そもそも、システムは停止すればシステムとは言えない。そして、構造もエネルギーの散逸によって維持されているのであれば、停止することはない。構造があるということは秩序があるということであるが、常に変化を生じさせしめる秩序には、不変的な一般法則性があるわけではない。カオスのように単純な様態から予測不能な変化を生じるということは、すべてに当てはまる普遍で不変な法則はないということであり、法則を仮定して一般化した場合、常に例外が生じ、秩序外の状態が存在する。つまりは、秩序の中に混沌があり、混沌の中に秩序があるわけで、秩序と混沌はちょうど太極図のように絡み合っており、秩序と混沌は相即であり、お互いがお互いを生み出し、分離できないものだとも言える。
この混沌/秩序の中に、我々自身の持つ生命のダイナミックな躍動が潜んでいるわけで、そこには常に変動(≡フォース)があり、調和や同期(≡トーン)が存在し、それこそがさまざまな変化に対応できる柔軟な構造態を生む。そして、変化に適応しようとするがために生じる適応障害とも言えサブラクセーションも生じさしめる。常に散逸していく構造態における、この躍動と変化に富むカオス/コスモスなシステム作動そのものこそが「盲目なく生存意志」であり、カイロプラクティックで言う「イネイト・インテリジェンス」であるといえよう。
参考文献
- 「ウィキペディア」 ゼノンのパラドックス
- 「思考実験の科学史」2-19. 矢のトリック ゼノンのパラドックス
- 「時は流れず」大森 荘蔵 出版社:青土社 (1996/8/1)
- 「時間と存在」大森 荘蔵 出版社:青土社 (1994/3/17)
- 「時間と自我」大森 荘蔵 出版社:青土社 (1992/3/1)
木村 功(きむら・いさお)

・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC)で長年、理事、副会長兼事務局長を務める
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 理事
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