代替療法の世界 第52回
「見た目が大事?」
直観力を磨け
「見た目が9割」とも言うが、これは心理学者アルバート・メラビアンが1967年に発表した研究(メラビアンの法則)が元になっている。視覚情報(表情など):55%、聴覚情報(声のトーンなど):38%言語情報(話の内容):7%となる。この視覚と聴覚を合わせた「非言語情報」が93%に達することから「見た目が9割」という本のキャッチコピーが広まっていったのだろう。
確かにファーストチェス理論 (First Chess Theory)のように、プロのチェスプレイヤーが「5秒」で考えた次の一手と、「30分」かけて考えた一手の86%が同じであったというデータは直観力がいかに重要かという根拠になる。つまり直感による判断と熟考による判断に大きな差はなく、むしろ時間をかけすぎると情報のノイズが増え、決断が鈍る可能性を示しているのだ。
見た目が一番
代替療法では見た目の重要性はどのくらいなのか、考察してみよう。代替療法の世界 第42回「A.T.スティルの吐息」、第46回「野イチゴ落とし」にて構造と機能をテーマにコラムを書いた。どちらに優位性があるかを論じたが、とある意見によれば構造が機能を上回るらしい。となれば話は簡単である。見た目の状態を頼りに構造を分析し治療をすれば良いということだから。
オステオパシーの定義によれば
1.身体は一つのユニットである
2.自然治癒力を持つ
3.機能と構造はお互いに連関する
4.上記1から3を満たすものがオステオパシーである
というのが、教科書に載っている定義の内容である。
機能と構造がお互いに関連し合っているので、構造が1番、機能が2番ということもないし、逆に機能が1番、構造が2番ということでもないということが、教科書的には正しいということである。しかしながら、ある人によれば構造が1番であり、スティルもそう言っていたという。さらに続けると、スティルは視診のみで治療を行っていたそうである。初期の頃には可動性触診などの動きの検査を行っていなかったのである。構造のみの評価と治療がされていたのだ。これは初期の頃のカイロプラクティック(以下、カイロ)と同じではないか。であるならば、自信を持って構造的な意味合いを考えて治療ができるということになる。
根っこは同じ
とするならば、カイロの洗練された技術は初期の頃のオステオパシー(以下、オステ)と同じだという意味合いになる。これはカイロからオステに参入した人たちにとって自信になる。構造、もといメカニカルな力学的要素を主軸に治療を組み立てれば良いのであるから、話は簡単である。具体的な方法論として、脊柱にカイロで言うサブラクセイション、オステで言うソマティック・ディスファンクション(SD)が存在すると仮定する。一例を挙げると、ガンステッド・リスティングだとPRS、ナショナル・リスティングだとLPI、オステ病変だとFRS-LもしくはERS-Lとなる。「短テコ」でやりたければ横突起接触や棘突起接触で行えば良い。ただしオステで言う屈曲病変(FRS-L)の場合は、体幹を伸展させたときに右の椎間関節が閉じないので注意が必要である。カイロで言う「短テコ」での横突起接触での場合に、効果が見られる場合とあまり効果を感じられないという治療家もいるだろう。そのときは横突起接触から棘突起接触に変えてみると、案外良い結果が得られる可能性がある。その効果の理屈は前述のオステ理論が補完する。どちらにしても、「押して駄目なら引いてみろ」である。
カイロもオステも仲良く同じスローガン
スティルの提唱した論は「機能<構造」であったということである。ということは、両者の考えは原点では同じということになる。そうだとするならば、「構造を正せば、身体は変わる。カイロとオステ、二つの視点で本質的な健康へ」というスローガンが成り立つのである。スティルの初期の頃の考えはカイロとほとんど変わらない。だからカイロ、オステの両輪でのキャッチコピーも打てるのだ。構造と機能の優位性を倫理的に考察するとこうなる。お互いのイデオロギーは違うという御仁もいるかもしれないが、スティルが言っていたという言質を信じるならば結論はこうなるのである。
「いや違う」という意見もあるかもしれないが、その場合は機能と構造には優位性があるものの、機能には構造が内包されるし、逆に構造にも機能が内包されているというロジックになる。これこそ現代のオステが提唱する「機能=構造」ということになる。なかには天邪鬼(あまのじゃく)のオステオパスがいて、「構造が優先しますかと問うと、機能と言い」「機能が優先しますかと問うと、構造と言う」、いったい何が正解なのかわからなくなる。ゆえに禅問答のようになる。禅問答というのは、答えがないものに答えを探すという過程こそが肝である。その思考過程の中で見つけた答えが、悟りを得た答えなのだ。そうなれば、オステは皮肉なことだが「科学から宗教へ」変換を遂げる、ということになる。あれ?オステは科学ではなかったか。そうなるとカイロの科学性に軍配があがる。
山﨑 徹(やまさき・とおる)

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