イネイト・インテリジェンスとは何か?」第35回
本論休題2-7
【柔道整復(柔整)師についての私見 3】
明治期には文明開化の流れにより、全般的に古いものは排除される方向に向かっていった。医学も本道医学・漢蘭医学からドイツ医学にシフトされ、骨継ぎ・接骨も同様で、この流れは明治から大正初期まで続いている。明治7年に「医制」が制定されると、明治13年に第1回の医師国家試験が行われた。全国の「整骨科」標榜者数(内務省衛生局年報)は、明治13年326名、14年366名、15年387名、16年352名である。明治16年に「医師免許規則」および「医術開業試験規則」が公布され、接骨医は一代限りの免許として医術開業試験規則に従った試験合格者に、「接骨科医術開業免状」を出す特例措置が行われたが、これは既得権者に対するもので、その後の取得はできなかった。明治18年には無免許の接骨営業が禁止となった。
因みに名倉家は明治期に第五代目の【名倉謙蔵】が、東大医学部の前身である東大の別科を卒業、医師免許を取得して家業を存続した。その後、代々整形外科医院を営んでいる。
明治新政府により、公家・大名と士農工商の身分制度が四民平等となり、華・士・卒族(足軽や同心などの下級武士)・平民という区分になるが、恐らくは士・卒族間でも差別意識があったのではないかと思われる。この卒族は明治5年に廃止され、士分であって世襲されていた者は「士族」に、一代限りの者は「平民」に編入された。 【嘉納治五郎】の最初の師である天神真楊流の【福田八之助】は、幕府講武所の柔術師範であったが、講武所師範の名簿に福田の名称はない。福田八之助は郷士の養子となったが、恐らくは元が農民出身であったためであろう。文明開化の流れとともに、このような差別意識が根底にあれば、柔術家による古い接骨医を一概に認める形にはなりにくかったのかもしれない。
明治以降において、柔術・柔道と接骨・柔道整復は非常に深い関係があり、どうしてもこの両者の歩みを見ていく必要がある。明治時代の警視庁の初期には抜刀隊もあった。そのため警視庁武術世話掛(かかり)=撃剣世話掛・柔術世話掛があり、剣術、柔術、捕手術などを指導していた。これは幕府講武所からの流れもあろうと思われる。初代大警視(後の警視総監)の【川路利良】は訓示で、「剣術も柔術も心得て居らねば実際の役に立たない。・・・昔の武士は剣術に優れて居るだけでなく、柔術も相当に心得て居た。・・・兇賊と戦うには面とか胴とかに捉われた約束はない。諸君『剣術使いになるな』『やわらとりになるな』と私は力説しておく」(『警視庁武道九十年史』)と言っている。
明治初期には【徳川家茂】の指南役でもあった直心影流の【榊原鍵吉】が立ち上げた撃剣会の主宰による撃剣興行や、天神真楊流の【磯正智】や楊心古流の【戸塚彦介】の柔術会による柔術興行などがあり、福田八之助も参加している(磯正智は嘉納治五郎の二番目の師でもある)。「剣術使い」や「やわらとり」とは、これらを評したものであろう。やわらとりなどという言葉は「すもうとり」と同根であると思われる。
結局、武芸者というのは「芸者」である。興行では当然ルールがあり、客受けの良い派手な技が主体で、例えば天神真楊流では天井を蹴る稽古などがあるが、基本的には流派の秘技は伏せられていると思われ、こういう口伝・奥伝などの武術における秘密主義も、柔道整復術の内実を隠していった要因の一つと思われる。
この明治初期に柔術世話掛で警視庁柔術師範となり、警視流拳法の制定に携わった【久富鉄太郎】は、久留米藩の渋川流・楊心古流師範(柔術会の【戸塚彦介】が師)でもあり、久留米藩の良移心当流の柔術師範【下坂五郎兵衛】の道場にも出入りしていた。上京して警視庁武術世話掛の発足に関わったことにより、久留米藩の有力な柔術家が警視庁に招かれた。当時、日本一の実力を持っていたとされる良移心当流の【中村半助】は【下坂與三太夫】の門人であり、久富に招かれ警視庁武術世話掛を務めた。この良移心当流は【陳元贇】の教えを受けた薩摩の三名、【三浦与治右衛門義辰(三浦流)】、【磯貝次郎右衛門(観心流、制剛流?)】、【福野七郎右衛門正勝】のうち、福野の系譜による柔術である。当時、良移心当流は東京の天神真楊流とよく試合をしており、この天神真楊流(当身技・関節技中心)は、起倒流(投げ技・捨て身技中心)とともに講道館柔道の基礎となっている。また、天神真楊流は楊心流の流れを汲み、柔術教授傷挫骨治療所と称して活法・整骨・薬法なども生業にしていた。
警視拳法は久富鉄太郎の「拳法図解」によると、各警察署の柔術に長じた者26名(16流派)を集めて技を演じさせ、そこから形を編成して「拳法」と名付けたとされている。柔術形は天神真楊流、真蔭流、渋川流、立身流、戸田流、気楽流、荒木新流、起倒流、一傳無双流、清水流、神明殺活流、良移心頭流、殺当流、揚心流、扱心流、関口流、水野流などが取り入れられた(Wikiによれば14流派とあるが、数えると17流派)。
明治20年頃、講道館柔道が警視庁武術大会で戸塚派楊心流や良移心当流などと試合し、試合数は不明であるが2〜3の引き分け以外すべて勝ったことから講道館の実力が示された。これは小説「姿三四郎」にも記述があり、姿三四郎のモデルである講道館の【西郷四郎】が、戸塚派楊心流の【好地圓太郎】(同流の【照島太郎】とも言われている)を山嵐で破り、同じく講道館の【横山作次郎】が、先の天下無敵と言われた中村半助と、55分に渡り壮絶な死闘を繰り広げ引き分けた。こののち横山は鬼横山と言われるようになった。この試合のあと【三島通庸】警視総監が、講道館柔道を警視庁の必修科として柔術世話掛に採用したため、全国に広がっていった。このため警視拳法は指導されなくなった。
明治以来の警察との結び付きのせいなのかわからないが、柔整師が警察に出す交通事故診断書を作成できるなどの状態が現在も続いている。不思議なことに診断書を作成しても、医師法違反にはならないどころか検察でも通用する。そもそも警察に置いてある診断書には、医師か柔整師かに丸を付ける欄がある場合すらある。まあ、骨折・脱臼・捻挫・打撲(挫傷)に関して、診断できなければ治療できないわけであるから、当然の流れと言えばそれまでではあるが。
あはきも同様であるが柔道整復は医業類似行為に区分されている。しかし中には、医師法第十七条に医師でなければ医業をなしてはならないとあり、柔整師法第十五条に医師である場合を除き、柔整師でなければ業として柔道整復を行ってはならないとあるので、医師が業として柔道整復ができるのであれば、柔道整復は医業類似行為ではなく医業だと主張する者もいる。
このように、柔術・柔道は講道館と関連して警察との関係が深かったが、軍部とは大日本武徳会と関連して関係があったと思われる。大日本武徳会は日清戦争などによって民族国家主義の高揚と、富国強兵などによる武術への関心の高まりを背景として、明治28年に京都で発足し、西の大日本武徳会、東の講道館と言われた。発足当初の会員数は1,800人に満たない組織であったが、2年後には10万人、10年後には100万人を超える大組織となった。明治42年には財団法人化し、会員数151万人、資金量181万円の大団体となっていた。明治40年頃の巡査の初任給は12円であったので、1円を1万円程度とすると、現在の水準では181億円となる。
昭和初期に大日本武徳会武道専門学校柔道教授を務めていた【稲葉太郎】や、その門人で大日本武徳会柔道五段位の【中野銀郎】は、ともに柔整師で接骨學會を主宰しており、会員は大日本武徳会関係者の他、柔整師で帝國尚武會の会長であった【野口清】の関係で、同會の会員も多く所属していた。稲葉は【中西元雄、脇川良一】とともに、講道館の理念である精力善用、自他共栄に対して西洋思想だと批判し、【全日本柔道会】を設立して講道館から組織的に分裂したことで、昭和12年に破門され七段位を剥奪され、【日本伝肉弾體武】という独自の武道を教授し始めた。また中野は武医公論社を主宰し、整骨関係の書籍の出版を行っている。野口は東京府柔道整復師会理事で整骨の研究もしており、整骨法を詳細に解説した「整法百技詳解」を刊行している。
昭和9年に大日本武徳会柔道教士になった楊心流柔術の【堀越元義】も、柔整師で東京柔道整復師会幹事であった。この東京府柔道整復師会の会長は、公認請願運動の主幹である【萩原七郎】で、幹部もほとんど天神真楊流であり、大日本武徳会との関係が深かったと思われる。また帝国陸軍の異端児と呼ばれた、陸軍中将【石原莞爾】は昭和14年に「東亜連盟」という思想雑誌を刊行していたが、これを通じて石原に師事した者に【福島清三郎】がおり、福島は【牛島辰熊】(【木村政彦】の師)、【曺寧柱】(【大山倍達】の師)、大山倍達などの師にあたる人物であり、この3名もまた石原に師事している。福島は扱心流柔術を学び、大日本武徳会柔道範士で講道館9段位であったが、自宅の道場の一部で接骨院を営んでいた。
余談であるが、昭和の陸軍中野学校などでは、柔道よりも一撃必殺の効果が高い合気道が必修科目であったらしい。恐らくは大日本武徳会系の合気道であったのではないかと考えられる。
大日本武徳会は昭和17年には全国に支部を建設し、会員数224万人、資金量559万円という膨大な会員と莫大な資金を持つ巨大組織となっていくが、昭和21年にGHQにより戦争協力があったとされて解散させられた。
接骨師の状況について振り返ると、明治44年に恐らく古来からの伝統である盲人保護のためか、「按摩術営業取締規則」が制定され、鍼灸・按摩の営業が公認されたが、明治から大正初期にかけて接骨が公認されることはなかった。そのため、当時は接骨家のほとんどが按摩業者の門下生となり、按摩業に隠れて接骨術を行うという苦肉の策で業務を行っていたらしい。明治45年(1912年)、こうした状況を危惧した楊心流・神之神道流・天神真楊流の3流に属する柔術・柔道の整骨家らによって、接骨術復活のための公認運動が始まったが、逆に接骨家に対する取り締まりが厳しくなり、大正元年には一代免許を持たない接骨家の一斉検挙が実施されて、無資格者が多数摘発された。
それゆえか大正2年には接骨術の復興を目指して、公認請願運動を行うための柔道接骨術公認期成会が結成され、会長は天神真楊流の【竹岡宇三郎】、理事長は同じく天神真楊流の【萩原七郎】で、復権運動とともに柔道接骨術の講習会を開催した。萩原は【東郷平八郎】元帥への直談判をしたりと人脈が広く(大日本武徳会絡みと推測される)、東郷元帥から贈られた「武醫同術」の言葉が、公益社団法人栃木県柔道整復師会の会館にある記念碑に刻まれている。多くの知識人賛助者の手助けもあって、完成した請願書の主意書の中に次のような文言がある。「医ノミ必ズシモ万能二アラズ・(略)・、接骨尚ホ可アルナリ、元ヨリソノ病状如何ニヨリテ選択スルニ何ノ不可アラン」。つまり、「西洋医学だけが万能ではない。接骨もまた有用である。元々、病状によって西洋医学か接骨かを選択するべきであり、何ら問題はない」と主張している。
この請願書が作成された当時は、西洋医学に重きが置かれ、それまで主流だった東洋医学や伝統医療が、劣ったものと見なされていた時代であったが、こうした状況の中で柔術家をはじめとした接骨家(後の柔整師)たちは、柔道整復術が西洋医学とは異なる独自の価値を持つ、正当な医療であると主張したわけである。 つまりは、一方的な西洋医学の排他性を批判し、それぞれの専門性が異なる治療法を、患者の状態に合わせて選択することの妥当性を訴えるものであったらしい。
要はアンブロワーズ・バレなどに代表される近代外科学の発展と同様に、イギリス経験論を元とした経験主義エンピリシズム(=経験を重視する治療法で経験に基づいた実証的なアプローチを重視する)を持って妥当性を担保しようとした。
この柔道接骨術公認期成会の賛助者であった講道館の嘉納館長は「柔道家に他人の足腰をさするようなことはさせたくない」と発言し、柔道接骨術公認期成会運動を反対する意思があったとする説があるが、それは誤解であると思う。講道館柔道の源流の一つである天神真楊流は、前述の通り江戸時代より柔術と接骨術を伝承していた流派で明治中期にも東京府内だけで22か所の道場が存在していたと記録されている。
そこでは先に述べたように柔術教授傷挫骨治療所の表札が出されていて、嘉納の師である農民出身の天神真楊流・福田八之助の職業も、Wikiでは柔術家、接骨師とされている。振気流の【隈元実道】などは柔術家が整骨・活法を行うことを否定していたが、どう考えても嘉納が自らの師を貶めるような発言をするとは思えない。先に記述したように、按摩の傍らで接骨を行っていたとすれば、柔道家が他人の足腰をさするようなことをしていたであろうし、按摩まがいの施術を行う柔道家もいたかもしれない。こういった背景があっての嘉納の発言ではないかと思う。つまり、他人の足、腰をさする按摩まがいのようなことではなく、きちんとした柔道(柔術)の理論に基づく治療を行えるようにしたいという嘉納らしい願望があったのではないかと思われる。
その他の賛助者には、医師会の【三浦謹之助】博士、【井上通泰】博士や東京帝国大学整形外科の【田代義徳】教授などがおり、彼らの尽力も大きかった。この背景には、整形外科医の不足もあったと思われる。
大正9年に内務省は、接骨師が行う柔道接骨術は名称としても認め難いが、柔道家が行う柔道整復術ならば妥当として、省令により按摩術営業取締規則が一部改正され「柔道ノ教授ヲ為ス者ニ於イテ打撲、捻挫、脱臼及ビ骨折ニ対シテ行ウ柔道整復術ニコレヲ準用ス」と加えられて、接骨師の身分がある程度法的に確定したようである。とは言え、按摩術営業取締規則の附則に過ぎず、呼称も接骨師ではなく按摩師であった。このように確たる基盤はなかったわけであるが、柔道整復術が公認され法制化された第一歩となり、同年に第1回の柔道整復術試験が警視庁で施行されて、その合格者によって「大日本柔道整復術同士会(いくつかの合併改称後、現・日本柔道整復師会=日整となる)」が結成された。
当時の柔術・柔道家の多くは柔術・柔道指導だけでは生計を営むことが難しく、国にとってはその救済策の意味合いもあり、各人にとっては接骨業を国に認めてもらうことで、自分たちの道場経営も維持できるようになるのではないかと期待もあったと思われる。実際、公認当時は柔道整復術資格試験を受ける条件として、講道館柔道三段位以上の者とされたこともあり、それが柔整師という名称のきっかけとなるとともに、昭和中期頃にかけて柔道の地域振興の礎にもなったようである。これによりその後、約3,000人の接骨師が柔道整復師として復権したとされる。因みに現在の公益社団法人 日本柔道整復師会の会員は、令和7年13,214人である(柔道整復師の総数は令和6年末時点で78,666人)。
次回は、柔整の保険取扱いの流れと戦後の経過をみてみたいと思う。
木村 功(きむら・いさお)

・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC)で長年、理事、副会長兼事務局長を務める
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 理事
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