加瀬建造氏を偲んで

 先週末、加瀬建造氏の葬儀(19日:通夜、20日:告別式)が行われ、両日とも参列させていただいた。通夜でご家族から亡くなられる前の壮絶な病魔との闘い、そんな中でも10月に開催されるキネシオの学会に向けて最後の力を振り絞っていられたことをお聞きし、さらにお清めの席では縁のある方々との思い出話で、つくづく「先生、まだ早いよ! まだまだご一緒させていただきたかった」という想いが込み上げてきた。告別式では、お別れの言葉を捧げさせていただき、私の残された時間がどれほどあるのか見当もつかないが、これまで、そして最後の最後まで一生忘れることのできない思い出をいただいたことを、心から感謝したい。先生、本当にありがとうございました。

 8月10日に亡くなられたと連休中にお聞きしたとき、40年に及ぶお付き合いの1コマ、1コマが走馬灯のように頭の中を巡った。仕事でというより、お酒、カラオケ、ゴルフ、そして、恐れを知らず突っかかっていったこと、どれも忘れることのできないことばかりだ。頼み事をするときの「斎藤さん」、言うことを聞かせようとするときの「斎藤」、会話中の「オメェ」、もうどの呼ばれ方も聞くことができないと思うと、メチャクチャ懐かしくて、メチャクチャ寂しい。

 昨年の11月の終わりか12月の初め頃、久しぶりに電話をいただいた。「おっ、先生からだ!」と出たら、いきなり、
「なんで『臨発』(40年近く開催されているキネシオテーピング臨床研究発表会の略称。昨年11月に学術臨床大会として3年ぶりに対面で開催)に来てくれねぇんだよ!」
「えっ、聞いてないですよ! 知っていたら行きますよ! ああ、それで先生、いま日本なんですね!」
「そうだよ、それでこの前、死ぬ思いして帰ってきたんだよ! まあいいや、久しぶりに日本の業界の話を聞かせてくれよ!」
「もちろん、先生の都合のいい日にどこでもいいですよ!」
「オレもう透析していて、そうそう出歩けねぇから自宅な!」
というやりとりがあって暮れに八王子のご自宅にお邪魔した。飲めない先生を目の前に散々ご馳走になり、奥さん、奥さんの弟さん、2匹のワンちゃんと和やかなひと時を過ごさせていただいた。しかし、それが直にお会いする最後になろうとは!
 それでも年明けに、病院(東海大学病院に入院)から何度か電話をいただいた。当社が東海大学の関連会社ということを知っていて、「この病院、設備悪いぞ!」とか相変わらずの調子で、元気な声を聞かせてくれた。そのリアルで話す生の声さえ聞くことも、もうできない!
 

 ちょうど40年前の1983年から10年間、「カイロプラクティック夏季大学」というイベントを行った。毎年、幾人かの講師にご登場いただいたが、最も多くご登場いただいたのが加瀬先生だった。1984年に当社から「脊椎動可法」3部作の第1弾が出版され、それを機会の最多登場だったが、いつも快く引き受けてくださった。
 この動可法の動可という言葉が聞き慣れなかったので、30前の若気の至りというか何も知らないまま聞いてみた。そしたら、「君のところの会社(実際には個人名だったが、ここはもう)、何も言わずにそのまま作ってくれたけど、意味があってタイトルつけてるんだからな。可動は動きが可能、動可は動きを可能にする、ということだからな!」。なるほど、造語か! 加瀬先生って、こういうひねり方するんだと、一気に理解が深まったような気がした。
 この頃、先生は医道の日本社さんから「写真とイラストによる キネシオテーピング法」が出版され、好評を博し協会(全国キネシオテーピング協会)を設立、第1回の『臨発』を当時、信濃町にあった野口英世記念館で行うなど、知名度を一気に上げているところだった。当社のイベントだけでなく、案内をいただいたら顔を出せるところはすべて顔を出していた。

 ごく最近と、出会った頃のことだけで、あっという間にA4の1ページ以上になってしまった。このままだと、あと何枚かかるかわからない。なので、先生はあまり書いてほしくないかもしれないが、医師法違反に問われたときのことについて軽めにサラッと! このときもできる限り傍聴し、その行方を追った。そして復帰されたときに、当社で『加瀬建造氏を囲む(励ます)会』を開いた。このことを先生がいたく喜んで、そこから一層関係が深まったような気がする。

 とにかく、先生の銀座・四谷・沼袋のオフィス、ご自宅、別荘、晴海・新宿・新井に寝泊まりするために借りていた部屋、趣味でオープンした銀座のスナック「笑」、東京にとどまらず、大阪・福岡・仙台。いろいろなところでご一緒させていただいた。新宿の部屋での60代と50代のオッサン二人のカラオケ、今考えても何が良くてやっていたんだろうと思うが、そのときは何の不思議もなく興じていた。
 こんなこともあった。先生が何かの拍子でセパタクローの協会の副会長か何かの役に就かれた。「斎藤さん(出た!)、誰か文部省(当時)に知り合いいない?」ときた。それで、セパタクローをオリンピックの競技に入れてほしいとJOCの本部へ直談判に行ったが、結果は「何しに来たの」という感じだった。その夜の二人の反省会、決して忘れることのない一夜だった。
 

 どこに行っても「らしさ」を発揮した先生、私の役目は先生の語り部として、愛すべき人間像を長く(限りがありますが)、広く伝えることかなと思っています。先生、心よりご冥福をお祈りします。そちらの世界でも、「オレは稼げんぞう、だから貧乏なんだ」とシャレにならない自己紹介を絶対してくださいね! あとからチェックに行きますから!

斎藤信次

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