「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第15回
イネイト・インテリジェンスの甦生(1)

 イネイト・インテリジェンスは死んだ! カイロプラクターが殺したのだ!

 だがこれは、ニーチェのそれとは趣きが全く異なる。カイロプラクターの多くは、いわばデウス・エクス・スキエンティア(=科学から出現する神)の信奉者になってしまった。そして、それはカイロプラクターがカイロプラクターであることを放棄することに等しい。では、そういうカイロプラクターが何になったのかと言えば、なんだか変わった治療を行うイビツな理学療法士か、無駄に医学的知識を振りかざす偉そうなリラクゼーション・セラピストといったところであろう。

 そもそもカイロプラクティックは、現代医学とは異なる独自の人体概念・医療概念を持って治療にあたるものだ。本来、医療は多様な人間概念による多元的医療観によって、様々なアプローチを行うべきであり、それが結果的により多くの人々を救うことになる。

 昨今、エビデンスなどと言われる単一の概念のみで人体の問題を解決することができないことは、現代医学がすべての人体の問題に対応できない点を見ても明らかであろう。このエビデンスの基礎となるのは、統計である。

 かつてマーク・トウェインは、1906年の「North American Review」に掲載された「Chapters from My Autobiography」において、「私はしばしば数字に惑わされる。自分自身に当てはめる場合はなおさらだ。ベンジャミン・ディズレーリの言葉『ウソには3種類ある。巧妙なウソ、見えすいたウソ、そして統計である』が正当性と説得力を持って通用してしまうのだ」と言っている。

 また佐和隆光氏の「初等統計解析 改訂版」にも、「しばしば統計は、他人をだますための方便ともなる。統計の悪用と誤用は、日常茶飯のごとくみうけられる。数字の氾濫するこの世の中において、『統計のウソ』に対する抵抗力をそなえておくことは、将来どういう仕事に携わる人にとっても必要不可欠なはずである」という記述がある。

 統計は技術として制約条件や設定を変えたり、座標の変換、誤差の処理などで、元のデータをいかようにも加工できる。そのため、まともな人間なら「ある制約条件を付ければ」とか、「短期的に近似すれば」とか、「時間変動を無視すれば」とかの枕言葉を添えるようになる。

 そもそも人間のすることに絶対的な正しさなどない。愚かなカイロプラクターたちは騙されてイネイト・インテリジェンスを殺した。そして、さらに愚かなカイロプラクターたちは、イネイト・インテリジェンスの死体を生きているかのごとく扱っている。

 まともなカイロプラクターならわかっているのだ。イネイト・インテリジェンスの死がカイロプラクターのアイデンティティ(存在要素)も、レゾンデートル(存在理由)も消滅させるということを。イネイト・インテリジェンスがなければ、サブラクセイションもなく、アジャストメントもない。つまり、カイロプラクティック自体が成り立たない。では、どうすれば良いのか? 答えは明快である。イネイト・インテリジェンスを甦らせれば良い。さらなる力強さを持って、現代にイネイト・インテリジェンスを甦らせることこそ、早急にカイロプラクターが行わなければならないことである。
 

(1)一般システム論1

 これまで、近代哲学の変遷からイネイト・インテリジェンスを考察してきた。そして、それらを基盤にイネイト・インテリジェンスを「盲目なる生存意志」と結論づけた。しかし、それは同時にイネイト・インテリジェンスが知覚できないもの、であるということでもあった。

 では、ショーペンハウアー は『意志と表象としての世界』で何を見たのか? 端的には「盲目なる生存意志」同士の終わりなき闘争であろう。前述したが、同時にそれは一つの「作動」であると言えよう。つまり、本体である「盲目なる生存意志」自体はわからなくても、「作動」している表象は見て取れる。
 

 オーストリアの生物学者であるルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィは、1950年代に「一般システム理論」というものを提唱した。システムは日本語では「系」である。神経系も筋骨格系もシステムである。しかし、人体系とか人間系という言葉を、医学では聞かない。

 医学的な意味合いでの人体系は、人体内部のすべての系の複合体であり、人間系という場合、そこには筋骨格系や神経系、循環器系などは言うに及ばず、心や精神、あるいは魂が系、つまりサブシステムとして含まれているべき全人的な系=システムである。

 通常の医学では、各サブシステムのスペシャリストはいるが、すべてを包含するシステムとしての人間自体を見ることはない。これはおそらく、科学として何を見ているのか、はっきりしなくなるからであろう。そもそもシステムとは、「組み立てた物」を意味する古代ギリシャ語のスュステーマを語源に持つ。
古代ギリシャ哲学には、「全体とは部分の総和以上の何かである」という考え方があった。これはアリストテレスなどが言ったことであり、この全体性を見失わない考え方を「ホリズム(Holism)」と言う。

 これがいわゆる生気論の元で、そもそもデカルトなども「松果腺からの動物精気が神経を動かし感情が生じる」などとした生気論者とも言える。世相的なものもあるのか、1900年代初頭頃から洋の東西を問わず、オカルト的なものがかなり流行した。当時、生物は一種の機械なのか、それとも何か霊魂のような身体とは別なものが制御しているのか、という「機械論」vs「生気論」の論争があった。

 機械論(Mechanism)とは、自然現象に代表される現象一般を、心や精神や意志、霊魂などの概念を用いずに、その部分の決定論的な因果関係のみ、特に古典力学的な因果連鎖のみで解釈が可能であり、全体の振る舞いの予測も可能とする立場であり、生気論(vitalism)とは、生命現象には物理学および化学、数学などの法則に還元できない独特の原理があるとする説である。

 人間機械論を唱えたのは、デカルトから100年くらい後の医師で哲学者のラ・メトリーであるが、結局どこまでも還元主義的に人間を捉えることになる。しかし、「弥蘭陀王問経」に見られるように、部分を集めても、また単なる総体もまたそのものであるとは言えない。一人の人間において、子供のときと老人になったときでは同じとは言えない。にもかかわらず、昨日と今日では同じだと言うのはおかしな話だ。これだという実体を指し示すことができないのであれば、それは仏教で言う「空」であることに他ならない。
 

 さて、「機械論」も「生気論」も気に入らなかったのか、ベルタランフィは生物がどのように自分という生命体を自立させ、外部の環境との間に相互作用を起こし、それを取り込んで自立性を発揮していくのかを調べた。要するに、生物の本態的な「作動」を調べたわけである。

 その上で、生物とは常に「自己」を取り巻く環境との間で各部分を動的に調整し、緊密な連関を持ちながら全体を形づくる、いわば有機的に、まさしくオーガニックに、自己編成をしていると見た。つまり、自己が自己をコントロールしていると考えたわけである。そして、この自己編成状態は「情報」のやりとりによって、保たれている(制御されている)のではないかと考えた。システム内の情報は目に見えないわけであるから、これを生気と考えることもできるかもしれない。

 ベルタランフィのシステム論での生物としてのシステムは、開放された、外部からの影響により物質代謝を行う自己調整的な自己維持システムである。それを踏まえて、生物だけではなく、この世の様々なもの(政治とか、経済とか、何かの集団とか)をシステムとして捉えて、方向性みたいなものを考える理論ということで、一般がついて一般システム理論となった。これは、その後の構造主義の元ネタとも言える。換言すれば、生命現象に対して還元主義的な機械論を排除して考えられた理論であり、生気論に見られるような神秘主義的な原理を換骨奪胎した理論である。
 

 人体、あるいは人間はシステムに他ならない。この全人的なシステムに現れる不具合こそ、サブラクセイションである。では、それはどこにどう現れるのか? と言えば、この全人的なシステムが何のために存在しているのかを考えれば良い。人間の持つすべての構造と機能は、人体が活動するためのものである。最も原初的な意味合いで言えば、すべての生体システムは重力に抵抗あるいは利用して活動するためにある。

 端的には、筋肉によって骨格を動かすことによる活動のために、その他すべての器官系が存在していると言っても過言ではない。この筋肉によって行われる骨格の運動を独立連動させ、調和させるための制御を情報のやり取りによって神経系が行なっている。平たく言えば、重心の柔軟な制御を神経系が行っている。ならば、その不調和とは重心制御における不滑動化あるいは偏動、固着であると考えられる。

 カイロプラクティックの創始者は、このような人体の活動の要となっている骨格が脊椎・骨盤であろうと考え、そこに起こるある種の不調和が、ひいては全人的なシステム全体の不調和になり得ると見たのではないか。あるいは逆に、システム全体の不調和がサブシステムの問題を生じさせると見たのかもしれない。

 木琴や鉄琴などの打楽器は、叩かれることによって横波が発生し、それが空気を振動させて音となる。特定の音板の横波が発生しにくい状態にあればトーンが変わる。この問題が音板自体にあるのか、打楽器そのもの歪みにあるのかはわからない。

 ただ、カイロプラクティックの治療対象はおそらくこのレベルであり、音板が割れてしまったり、打楽器自体が損壊したようなものは治療対象にならない。この場合、システムが崩壊しているわけであるから、システムの力を利用して問題を取り除くカイロプラクティックでは治療のしようがないということになる。

 このシステム作動の乱れの結果=外環境の変動に追従できないシステム作動の部分的な偏動的・固着的安定による不調和=脊椎・骨盤を基盤とする人体活動システム自体が生み出す、システム自体による修正が不能なある種の安定的逸脱を、サブラクセイションとして捉え、それに対するアジャストメントは結果的に筋骨格を制御している神経系を介して人体活動システム全体への介入になると考え、全人的なシステムの再調和をもたらすと考えたのではないか。

 これを現代的に換言すれば、人体システムにおける重心制御の最適化とも言える。この最適化はシステム自体によって行われるため、アジャストメントは逸脱したシステム作動の破壊と言える。おそらく、これがDDやBJの見たものであろうと思う。ただDDやBJの時代には、もっと短絡的な神経圧迫説のような説明がなされたのだと思われるし、その時代においてはそれは最適な説明であったと言えるのかもしれない。
 

 このアジャストメントが(椎骨を通して)重心に対して行われるという考えは、愛知県豊橋の荒川恵史氏が、ターグルリコイルおよびガンステッド テクニックを深く研究された成果である。機会があれば、ぜひ荒川氏の従来のカイロプラクティックに似て非なるアジャストメントやそのための身体の使い方、パルペーションの方法などを学んでいただきたいと思う。
 

参考文献

木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員

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