代替療法の世界 第44回
「ユダヤの教え」
解釈の方法
「女と口を狙え」ユダヤの商売繁盛の秘訣である。日本では藤田田が忠実に実行し、日本マクドナルドを発展させた。口を狙えとは、文字通り飲食のことを指す。人間は腹が減ったら食べ物を欲する。ゆえにジャンクなファストフードは口を狙う商材としては大当たりであった。またユダヤにはダルムートという教えもある。これはユダヤ教の聖典を読み込むことにより、現代の解釈を加えるものである。
日本人にはあまり馴染みがないだろうが、宗教を基盤とする国では宗教は法律と同義である。であるから、この教えは揺るがない、変えることができない、ではどうするか。であれば類義語、同義語、文脈に合う文言で、元の言葉を置き換えて解釈を変えることにより整合性を持たせるのだ。例えば「人がもし、他の人に対して罪を犯すと、神(エロヒーム)が仲裁をしてくださる」神を裁き人と解釈する。神のところに裁き人が置き換わり、裁き人が行う仲裁は審判であり判決でもある。こうして神にしかできなかった仲裁を、人間が行えるように解釈を変えるのである。
カイロプラクティック哲学の限界
一方、代替療法には揺るぎない教えというものはあるだろうか。例えばカイロプラクティック哲学がその最たるものであろう。33の根本原理は神聖不可なもので、前提条件としてはすべて正しいとされている。第3回カイロプラクティック・フェスティバルに参加し、賀来史同氏の講演を聴いた。その中で素粒子に触れる場面があった。素粒子とは物質の最小単位であり、それが集合して人体を形づくるとあった。また、イネイト(自然治癒力)はその中に内包すると。
であるならば、直ちに次の疑問が生じる。根本原理の17に「すべての結果には原因があり、すべての原因には結果がある」と原因結果論がある。これは絶対的な時間の逆戻りが、不可逆性のものであるという意味である。しかしながら現在の素粒子論では、未来は過去を変えられるし、過去は未来も変えるということである。平たく言えば、「結果が原因を変えるのである」根本原理の一つが崩れた。となれば演繹的に構成された哲学は、その効力を失う。
科学が哲学を導く
演繹法とはなんぞや。という御仁のために演繹法の例を一つ挙げよう。演繹法は、主に以下の二つの前提から一つの結論を導き出す「三段論法」の形式で展開される。
大前提(一般論・ルール):既に知られている普遍的な法則やルールを述べる。
例:「すべての人間は死ぬ」
小前提(特定的事実):大前提に当てはまる具体的な事象を述べる。
例:「私は人間である」
結論(個別的・特殊的な結論):大前提と小前提から論理的に必然的に導かれる結論を導き出す。
例:「私は死ぬ」
そして、先の根本原理17(原因結果論)の前提の一つが崩れた。よって、カイロプラクティック哲学は前提が正しくないことになり、結論は間違っていることになる。演繹法の弱点は、その前提が間違っている場合、結論も間違ったものになる。カイロプラクティックは哲学、科学、芸術の三位一体である。科学がその一つにあるから新たなことが判明すれば、それに伴い哲学もアップデートされなければならない。科学は反証可能性を内包するので、常に最新なものに更新されるのである。それは哲学、科学にとって両刃の剣であり、科学を三位一体に入れてしまったがゆえの業とも言える。哲学に拘泥するあまり、科学が照らしてくれる道を見誤ってはならないのである。
フェスティバル後の議論
フェスティバル後に、カイロジャーナルの哲学の連載でお馴染みの木村功氏とのやりとりの中で、「なぜイネイト(先天的知能)は手の切り傷とかは治すのに、サブラクセイションは治せないのか。ニューロカロメータ、ナーブスコープといった温度測定器に変化が出ている以上は、炎症反応なので切り傷と同じになるのだが、この矛盾はどの先生もスルーしている」と問うた。
問を投げた理由は以下の通り。「イネイトは全知全能の神と同義である。この至高のシステムは人間が科学でいろいろな現象を紐解く前から存在し、人間とともに存在してきたものである。であれば、なぜ特定的に脊柱のサブラクセイションのみを除去できるようなシステムができなかったのであろうか。イネイトが全知全能であるならば、そもそもサブラクセイションが存在していることがおかしいことになる」。
木村氏の回答を要約すると
イネイトは人体システムそのものと考えられ、温度変動とサブラクセイションの関係は明確ではないが、温度変動は炎症や自律神経の影響を示す可能性がある。人体システムはエネルギー供給が不可欠であり、創傷修復もその一環である。炎症反応は病的でありながら治癒過程でもあり、反応の暴走は生存本能に起因する。小さな変動が大きな問題に発展することがあり、サブラクセイションは外部からの介入ではなく、内部の異常な反応によって引き起こされる。
システムが外部からの介入で異常を起こすことは理解できるが、内部の異常がシステムの維持を妨げる場合、異常状態が持続する。異常な作動を一旦停止し、システムが本来の省エネな作動に戻ることで、異常が解消される。現代医学的手法は一時的にシステムを補うが、根本的な回復はシステム自身の力によるものである。
サブラクセイションはイネイトによって形成されるが、イネイト自体はそれを消失させる力を持たない。サブラクセイションの除去はアジャストによる介入だけでなく、イネイトの作動を一時停止することで可能であり、どのような介入でも本来的な状態への再作動が期待できる。このように、サブラクセイションはイネイトが治せず、アジャストによってイネイトがサブラクセイションを治すという論理的整合性が見出せる、とのことであった。
ここまでの話をそれぞれ整理すると
1.イネイト(先天的知能)がサブラクセイションを治す
2.イネイト(先天的知能)がサブラクセイションを治さない
3.アジャストメントによってイネイトがサブラクセイションを治す
4.サブラクセイションはイネイトによってつくられる
5.サブラクセイションはイネイトによってつくられない
となり、木村氏の言をまとめると
「サブラクセイションはイネイトによって作られ、イネイト(先天的知能)がサブラクセイションを治すが、それを行うにはアジャストメントが必要不可欠である」となる。これらを端的に表したのが3の「アジャストメントによってイネイトがサブラクセイションを治す」である。
秘法ダルムートの威力
「アジャストメントによって、イネイトがサブラクセイションを治す」という文言にダルムートを使い解釈してみる。まずはアジャストメントから、これは物理的介入という言葉に置き換えることができる。物理的介入とはなんぞや。もっと単純な言葉で言うと「刺激」である。イネイトは人体システムと言い換える。これも単純な言葉にすると「からくり」である。もとの文に当てはめると「刺激によって体のからくりがサブラクセイションを治す」となる。
で、刺激の種類を細分化するとⅠa、Ⅰb、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳとなり、どれを選択しても刺激になる。であるならⅠbのアジャストメントの刺激でなくともサブラクセイションを除去できることになる。また、アジャストメントを干渉と置き換えた場合、さらに類語を当てはめていくと「口出し」となり、「口出しによって体のからくりがサブラクセイションを治す」となり、口出し(心理的アプローチ)もサブラクセイション除去に有効である、ということになる。
アジャストメントを刺激と解釈するとカイロプラクティック神経学になるし、口出しと解釈すると心理療法になる。「体のからくり」を変化させることができる「刺激」であれば、方法論はなんであれサブラクセイションは除去できるのである。根拠?カイロプラクティックにはアジャストメントの方法が山のようにあるではないか。カイロプラクティックそのものが、それを証明している。
山﨑 徹(やまさき・とおる)

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