代替療法の世界 第18回「まんじゅうこわい」
「私は馬鹿だが国民はもっと馬鹿だ」「自民党をぶっ壊す」、宣伝の極意!?
ヒトラーがその著書「我が闘争」の中で効果的な宣伝方法に言及している。伝えたいことを明確にすること。手を変え、品を変え、一つのことを伝えること。これが宣伝の極意。宣伝相ゲッベルスもその手法を踏襲し、ナチスを躍進させた。「私は馬鹿だが国民はもっと馬鹿だ」随分な言いようだが、これもまた先の宣伝の効果を裏付ける、ヒトラーの考えでもある。身近な例ではコロナの報道。ひと昔前では小泉純一郎氏の郵政解散「自民党をぶっ壊す」である。このフレーズも国民に浸透し自民党は圧勝。結果、郵便局は解体した。
「コロナはこわい」「コロナはこわい」、「まんじゅうこわい」!!
「コロナはこわい」これをマスコミは様々な方法で伝え過ぎた。ここぞとばかりにあおるものだから、「コロナはこわい」の大合唱である。怖さだけが独り歩きして怖さのインフレを引き起こしている。医療従事者、運送業者などコロナに関連する職種の人を差別したり、県外ナンバーの車に石をぶつけたり、傷つけたり。怖がる人がたくさんいるから、視聴率を稼ぎたいマスコミはもっと怖がらせるのだろう。国民が「コロナがこわい」と言うと、もっとコロナの怖さを強調する。落語の「まんじゅうこわい」じゃあるまいし、あおるのもほどほどにしないとシャレにならなくなる。
この「まんじゅう~」というのは、あるとき居合わせた連中がそれぞれ怖いものを言い合っていった。ある者は長いものが、ある者は蟻が、するとこの話の主人公が「饅頭が怖い」と言うのである。それなら怖がらせてやろうと、皆が饅頭や羊羹などをどんどん与え、その様子をコッソリ見た。なんと、喜々として食べているではないか。騙されたと腹を立て、「ホントは何が怖いんだ!」と問いただすと、「濃いお茶が怖い」というオチの一席である。
ゲームそっくりの展開!! 欧米文化の象徴的行為を変えるかも?
コロナウイルスの感染力は半端ない。ゲームさながらの光景だ。最初、武漢で発生したとき、中国政府は住民が移動しないようにあちこちにバリケードを作った。「バイオハザード」というゲームそっくりの展開である。アンブレラ社がゾンビウイルスを流出させ、感染するとゾンビ化して人間を襲う。ラクーンシティという架空の都市を封鎖して、ゾンビウイルスを閉じ込める。プレイヤーがゾンビになった人間を駆逐していく、というゲームだ。
ゲームの中では架空都市だけでの感染だった。しかし現実には世界各地で猛威を振るい、イタリアでは死体安置所に家族でさえも立ち入りが禁止された。それでは家族があまりにも不憫だと、向こうの坊さんのような人たちが「お経の一つでもあげてあげよう」と立ち上がった。そうした思いも虚しく、60数人がコロナにかかって殉職した。コロナは死体からでも感染する。飛沫、接触で感染するから棺なども危険ということだ。
あいさつのキス、ハグなど欧米文化を象徴する行為も変化せざるを得ないだろう。その証拠に頑なにマスクを着けてなかった欧米人も、外出の際にマスクを着用するようになった。西洋人はアイコンタクトでのコミュニケーションより、口の動きでコミュニケーションをする。だから彼らの文化ではマスクは長らく歓迎されなかった。コロナは容易に文化を変えた。
ゲームの例えばかりで恐縮だが
コロナウイルスを、ロールプレイングゲーム「ドラゴンクエスト」に例えると、スライムのようなものだ。弱いがこちらの体力が下がっていると、1ポイントのダメージでも命取りになる。レベルを上げるためにちょっと無理をする。宿に泊って体力を回復させれば問題ないのだが、体力が下がっても経験値と金を稼ぐためにすぐに宿には行かないのである。運悪くスライムに遭遇すれば死ぬ。死んでもゲームの世界では教会に行ってお金を払えば生き返る。ゲームの世界では金の力で生き死にも自由なのだが、現実世界では死んだら終わりなのである。だから恐怖を感じるのもよく理解できる。恐怖心を克服することは容易ではないが、現状をありのままに受け止めることで見えてくることもある。
陰謀論? ほぼ無症状感染者、発表以上の感染者が
武漢からわずか16キロのところにP4研究所があった。主任研究員の石正麗女史は米ノースカロライナ大学で、コロナウイルスに別の遺伝子を組み込んだキメラウイルスを研究していた過去がある。インドのデリー大学がコロナにはエイズウイルスが組み込まれていると言った(現在デリー大学は査読付き論文ではないため、論文を撤回している)。こうした事実により、陰謀論が好きな人には香ばしい条件が揃う。
一般的にウイルスが広がっていくときは毒性が弱まる。米国の報道によると、オハイオ州の刑務所で2千3百人を検査して、コロナの陽性反応が出た受刑者の2千28人中95%が無症状であったそうだ。ニューヨークとオハイオの距離は日本でいうと東京と青森くらいの距離になる。東京を中心に円を描くと北は青森、南は岡山、香川が入る。米国での感染距離を日本に換算したら、ほとんどがその射程圏内に入ってしまう。日本人も公式発表の感染者数以上に感染者がいることを示唆している。
これらから言えることは、感染力は強いが弱毒化しているということだ。WHOはコロナの抗体を持っていても再感染するという見解を出した。陰謀論はともかく、抗体を持っていても再感染するという現実は「集団免疫の獲得によって収束する」といった期待は薄くなる。となれば、個々人の意識の変化に期待するしかない。永六輔の著書「大往生」での格言「人間の死亡率は100%」。こうしたある種、達観した死生観がみんなの共通認識にならなければ、コロナは収まらないだろう。
検査の信頼性
PCR検査の拡大、拡充のことをいくら言っても、感度、特異度の問題があるから検査の信頼性にも疑問符が付く。この感度、特異度、平たく言えば感度とは実際に疾患があるときに、正しく陽性が出る確率をいう。陰性と判断しても陽性の場合もあるということだ。特異度とは実際に疾患がないときに、正しく陰性が出る確率をいう。陰性なのに陽性とされることをいう。実質的な信頼度は多く見積もっても50%程度であり、100%の完璧な検査方法はないということだ。コロナの症状を加味して、PCR検査をして確定診断しなければ意味がないのである。でも「コロナはこわい」が先行し、こうした検査の基本がおざなりにされている現状だ。
経済も死ぬ! 地域も業界も、活路は?
コロナでは人も死ぬが、経済も死ぬ。高知の話だがタクシー運転手の売り上げは半減し、飲食店は壊滅状態。夏の風物詩「よさこい祭り」も中止になった。これは対岸の火事ではない。当然、徒手療法も影響を受ける。直接的には患者のキャンセル。間接的にはセミナー中止による学びの機会の喪失だ。欧州、米国から講師を招いてセミナーを開催している団体、個人は影響をモロに受ける。日本人講師の場合も同様だ。エライことになった。
この状況が続けば、家賃などの固定費が足かせになり、セミナー運営も立ち行かなくなる。永遠に学ぶ機会が失われる可能性も現実味を帯びてきた。コロナによって治療家の多くが生活を変えざるを得ないだろう。収束するのも時間が相当かかることは間違いない。ZOOMを利用した遠隔でのセミナーに活路を見出すのも一つの手だろう。他の分野ではもう既に行われていることだが、岡井DCがその先駆けというか、ZOOMを使ったセミナーが今月10日からスタートした。さすが、やることが早い。
最後に、マスコミにひと言。私は「使い捨てマスクと消毒用アルコールがこわい」。
山﨑 徹(やまさき・とおる)
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