カイロプラクターかく語りき 第4回
スター不在のカイロプラクティック界
うまい先生との出会い、貴重な機会を逃さずに
カイロジャーナル88号 (2017.2.19発行)より
カイロプラクティックが日本に伝わって百年が経った。各種民間療法が入り乱れる中廃れることなく生き延びた事実は称賛に値するものの、哀しいかな、メジャーとまでは言い難い。その一番の理由として挙げられるのが「スター不在」だと個人的には思っている。
健康・医療関係の話題がメディアに取り上げられて久しいが、その中でカイロがクローズアップされることは滅多にない。あったとしても自称カイロプラクターによる事故報道くらいなものだ。実際カイロプラクターがメディアに登場しても、何らか別の肩書をもって自分を飾るケースが多い気がする。メディアの意向で肩書の変更を余儀なくされた可能性も否定できないが、それはそれで情けない話である。
先のソウルナイトの中で採られたアンケートの中に「尊敬するカイロプラクター」を問う項目があった。DDパーマーを筆頭とした海外のカイロプラクターや勤務先の先生などの名前が挙がる中、白紙回答がその半数近くを占めていたという。また、マイナーながらも重鎮と称される日本人カイロプラクターの名前もごく少数だったらしい。つまり、次代を担っていくカイロプラクターが見当たらないということかもしれない。
もっとも、スターがいればいいというわけではない。そこには当然結果が求められる。
かつてマイナーなスポーツだったカーリングはオリンピックでの放映を機にその知名度を一気に上げた。一番の要因は勝って一定の結果を残したからだ。そしてそこからスターも生まれた。一方、ハンドボールも一部選手がメディアに取り上げられスターとなり、それにあやかり一時期クローズアップされた。しかしながら、そうした一連の流れはすぐに終息へと向かった。予選に負け、結果を残せなかったからだ。
日本のカイロ界は、スターもいなければ、目に見えた結果も残せていない。結果の見せ方、そして何をして結果とするのかは難しいところではあるが、まずはカイロプラクター一人ひとりがカイロを大々的にアピールしていくことが不可欠と言えよう。自称スターやスター希望の先生方は少なくないようだから、カイロプラクターとしての自分をもっと前面に出して売り込んでいけばいい。
ところが、そうした先生方のほとんどが肝心のカイロプラクターからの支持を得られていない。ただでさえ出る杭を打とうとする悪しき風習に加え、スターになるためにはカイロだけにこだわらないというその姿勢、あるいは小さいお山のスターになっただけで満足し、それ以上の展開に発展させようという気構えが全く感じられないことが、支持を得るどころか逆に反感すら買う事になってしまうのだろう。
いわゆる職人の世界で技術を高めていくにはどうしても時間がかかるし、そこに近道はないとされている。それでも強いて挙げるとするならば、上手い先生に師事することが近道といえるかもしれない。ところが上手い先生にはそうそう出会えるものではない。もちろん著名な先生はおられるが、セミナー等を受講しない限りは直接指導を受ける機会は皆無と言えよう。たとえ機会に恵まれたとしてもその体格や能力、そして何よりもフィロソフィーが合わなければ身につくものも身につかない。
さらに、上手い先生ほど表舞台には出てこなかったりする。個人的見解ではあるが、セミナーの講師は見せて魅せる方々なので必ずしも上手いというわけではないと思っている。また学校においても、フルタイムよりパートタイムの先生に上手い人が多いという印象が強い。そう考えると上手い先生との出会いというのは本当に貴重なものだと思うし、そうした機会を逃さない嗅覚と行動力、そして何よりも運が重要となるのではないだろうか。
他の業界は知らないが、特にカイロの業界ではスターが生まれにくい土壌があるように感じている。いかにも金で買ったと思しき「ゴッドハンド」が氾濫する中にわざわざ割って入ろうとは思わないだろうし、「ゴッドハンド」を凌ぐ売り文句を掲げてもかえって嘘くさく思えてしまう。それらを打破するためには、カイロプラクターとしての並々ならぬ信念と決意が必要となるのではないか。月並みではあるが、結局これに尽きると思う。
カイロプラクターの端くれとしては、カイロに対するカイロプラクターの「want」と国民の「need」が一致する社会となることを切に願って止まない。
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