代替療法の世界 第1回 「武士道とオステオパシー 」
明治時代、新渡戸稲造の神経衰弱完治に貢献
カイロジャーナル86号 (2016.6.17発行)より
「少年よ、大志を抱け」と言葉を残したクラーク博士は札幌農学校の教師として多くの農学者を育てた。二期生に新渡戸稲造がいる。樋口一葉の前の5千円札の肖像画の人である。彼の功績はたくさんあるが、中でも『武士道』(Bushido: The Soul of Japan)が有名である。英文で日本人の精神性を端的に表した名著である。世界中で翻訳されベストセラーになった。
その武士道の執筆の陰に代替療法があった。時は明治時代にさかのぼる。1987年(明治30年)新渡戸氏は重度の神経衰弱になり札幌農学校を退官する。治療をベルツ博士、橋本綱常博士(初代赤十字病院院長)に頼むも効果なし。転地療養を勧められ、1898年から1900年にかけて米国カルフォルニア州で療養生活に入る。そんな折り、知人からあなたを診察したいというオステオパス(以下DO)がいると聞き、怪しんでその理由を聞くと「町中であなたを見た時に気になってしょうがないから診させてもらえないか」と言う。
そのDOは新渡戸氏の頸椎を触診し「あなたは座っては何も仕事が出来ないでしょう」と告げた。事実20分以上の作業はつらく字を書く時も横になり足を挙げなければ書けない。なぜそれが解るのか。ますます怪しい。
DOはこう答える。「あなたは頸椎の一部の血管が細くなっている。そのため足を挙げる事により下半身の血流が脳に行くようになるので足を上げるのです」と。さらに頸椎を下がり5番を見つけ「これが原因で右手に異常がある」と言う。確かに20年前より右手の症状をかかえていた。その診断の正確さに驚嘆しつつも、翌日フィラデルフィアに出発するため、このDOの治療は受けられなかった。
しかしこのときプレステルDOを紹介される。新渡戸氏はオステオパシーに対してまだ半信半疑であったため、何も言わずに診てもらった。2人のDOが全く同じ診断だったので、新渡戸氏は彼らの診断の一致に感銘し治療を受けた。翌日より気分爽快になり、その後1日おきに2カ月通い完治した。
そして1900年(明治33年)『武士道』は米国にて出版された。新渡戸氏はすこぶるオステオパシーを気に入り日本にも広めたいと思い、懇意にしていたリード婦人にスティル博士の学校に通い日本に来てくれないかと頼んだ。彼女は2年半かけ、20カ月のアカデミーコースを卒業した。
1904年(明治37年)、リードDOは新渡戸氏の自宅にて施術する。オステオパシーの看板を掲げずに患者を診ていたようである。当時の医制の関係もあり、この様な形になったと思われる。治療費は初回2円、次回からは1円。現在の価値だと1円は1万円位であろうか。治療時間は10分から30分位であった。
リードDOはオステオパシーの講演を現在の共立女子大学の前身の職業学校で行った。以下に要約する。
スティル博士の研究動機。病について神は人を推量の中に置く、しかし神は真理の神にして推量の神ではない。神の作ったものは心でも物質でも調和している。病気が人の身体に宿るなら治療の方法も人体の中に備わっているはず、病気を無くすには薬よりももっと強力な物があるに違いないと考え、それを発見しようとしたのである。そして彼は様々な方面に向けて研究をしていく。中でも自然科学に関わる書物を読み漁ったという。
また当時のインディアンに同胞の死骸を木の上や柱の上におく風習があったため、それを何百体も解剖し、死因や靭帯、筋肉、骨それぞれの関連性を研究した。特に神経と心血管系の関係性を注視した。
その結果、病気とは動脈、静脈あるいは毛細血管に血液が一時的に滞っているか、あるいは永久に滞っているかが原因に過ぎないと気付いた。中でも血液と神経は良く調和して働いているので、神経を電気に例えるなら、その伝達が最も大事であると考えた。伝達障害こそが病気の原因であると。
彼は身体の力や神経を発見したわけではない。神経の伝達を妨げるもの、どんな所に故障が起こり易いか、どうやってそれを見つけ、どう治療するかという事を発見したのである。
そしてそれを証明するため、20数年間かけ実験と観察を繰り返した。身体の健康を保つには規則正しい食事と生活により、血液の自然な循環が必要である。当時の米国ではオステオパシーの学校は12校、学生は2000人、開業者は3000人という状況であった。近い将来日本も米国の様にオステオパシーの恩恵を受け取れる社会になるであろう。こう言ってリードDOは講演を締めくくった。
しかしながら日本ではオステオパシーが医学教育の中に取り入れられることはなかった。当時はドイツ医学が主流であり、新興国である米国の医学は歯牙にも掛けない風潮があったのも影響しているのかも知れない。とまれ新渡戸稲造が武士道を書き上げた事にオステオパシーの助力があったこと。彼が日本にオステオパシーを広めようとDOを日本に連れて来ていたこと。これは明治史の代替療法を語る上では歴史的事実として大変興味深い。
補足すると、スティル博士はキリスト教徒だったので、話の中によく神が登場する。また、インディアンの死骸は、見世物にされたり持ち去られて学校に飾られたりしていたので、スティル博士の行為は当時とがめ立てされるようなこともなかった。こうしてオステオパシーを創始する事が出来たのである。
山﨑 徹(やまさき・とおる)
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