この人に会いたい《特別編》安藤喜夫さんを偲ぶ

カイロジャーナル第24号(1996年2月8日発行)より

カイロ界は有能な人材を失う

安ちゃん、安らかに・・・
果たせぬ約束を残して

カイロジャーナル編集長 斎藤信次

1995年9月カイロ100年祭にて

安藤喜夫氏が亡くなってから、早いもので3ヶ月が過ぎた。しかしいまだに、彼が亡くなったとは信じたくない思いでいっぱいである。

彼の死を知らされた時、どうしてもそれを信じることができなかった。前日も電話で話をしたばかりだったのに、何がどうしてこうなったか見当がつかなかった。にわかに信じろと言われても、なかなかできることではなかった。しかし、それは事実であった。

私と彼は、東京と大阪に離れてはいたが、けっこう頻繁に連絡を取り合っていた。それがもう、話することもできなくなってしまったのかと思うと、私はこれまで味わったことのない、言いようのない寂しさを感じた。自分よりも年下の、しかもあまりにも突然の死に、ただただ「早すぎるよ。これからだったのに」と言うしかなかった。

彼はこよなくカイロプラクティックを愛していた。私はそんな彼が好きだったし、何かやってくれるんじゃないかと期待していた。だから彼から自分の研究会をやりたいと相談があった時も、一も二もなく賛成したのである。しかし、その研究会もたった1回行っただけで、劇的な終わり方をしてしまった。

彼は大阪で研究会を行い、それから、そのメンバーを中心としたネットワークを作ることにかけていた。だから、研究会に何人参加してくれるか非常に気にしていた。結果は予想をはるかに上回る60人以上の参加者が集まり、彼もこの結果に非常に気をよくしていた。

組織に頼らず、限られた地域を対象に、自分のビジョンを説明会で話し、その上で集まった人数としては十分評価できるものだと思う。

9月に一緒にツアーでアメリカに行った時も、「研究会の人たちにお土産買わな」と言って土産を探し回ったり、「研究会の人たちに見せるんや」と言ってビデオを撮ったりしていた。ツアーの団長で疲れていたと思うが、研究会に集まってくれた人たちのことをいつも考えていたようだ。

カイロ100年祭ロイドテーブル本社にて

10月15日の第1回研究会を明日に控えた日、大阪入りしていた私のところに、翌日がセミナーであるにもかかわらず夜遅くやって来て、「どや、読んでみい」と言いながら、セミナーノートを持ってきたのである。よほど自信があったのであろう。手に取って中を見ると、手作りの素晴らしいセミナーノートであった。「これだったらバッチリじゃない」と言うと。「当然や」と言わんばかりの顔をして、「これなら1年分まとまったら1冊の本になるやろ。そしたら出してくれる?」と言うのである。私が前々から、「訳本もいいけど、安藤喜夫編とか著の本を出さなきゃね」と言っていたことに対して、研究会でそれを実行しようとしてくれたのである。「もちろん」と答えると、「ようし」と言っていた。しかし、今となっては、果たすことのできない約束となってしまった。私は彼の本を、本当に出版したかった。

翌日の第1回研究会は案の定、素晴らしいものであった。彼のカイロプラクティックに対する考え方をすべてさらけ出し、実技なしで5時間話し続けた。そして、それから11日後、彼はこの世を去ってしまったのである。

彼はそれまでも日本のカイロ界に、少なからず貢献してきたといえるが、これからも必ずや、なお一層の貢献をするであろう有能な人材だったと思う。かえすがえすも残念である。

この原稿を書き始めたら、またいろんなことが脳裏をよぎる。しかし、今はただ、「安ちゃん、安らかに。会えて本当によかったよ。ずっと忘れないよ。ありがとう。さようなら」とだけ言いたい。

 

カイロジャーナル第23号(1995年12月6日発行)より
九州カイロプラクティック同友会会長 馬場信年

いとも静かに夕日影
消えゆく見れば亡き友の
面影のこる胸のうち
わが身に迫る夜のとばり
空に輝く数多の星に
友のみたまのいずれぞと
忍ぶもみくにの道標
仰ぎて友の幸いのる

 

1995年10月26日、安藤喜夫先生が急逝されました。

1984年、当時JCAの会員であった私は、解剖実習団の一人として、ナショナル・カイロプラクティック大学(NCC)を訪れました。そのとき、当時NCCの学生だった安藤先生に初めてお会いしました。滞在中に何度か言葉をかわす機会があり、「まだ学生ですから、先生はいいですよ。安藤って呼んで下さい」と、何となく照れ臭そうに言われたことを、昨日の事のように思い出します。

1987年にNCCを卒業され、帰国してJCAに参加、教育委員として、また国際セミナーの通訳として活躍されました。1990年、私にとって2度目のNCC訪問では、解剖実習団の引率者の一人として、その重責を果たされ、実習はもとより、送迎に、昼食の買い出しにと、実にこまめに、親身になってお世話いただき、その親しみやすい人柄に改めて魅了されたものでした。

第20回カイロプラクティック・セミナー

話は前後しますが、1989年に安藤セミナーを九州にて実施しました。これが先生とのかかわりが深める第2のご縁で、以来毎年テーマを設け、安藤セミナーを開催することになりました。おしゃれでニコニコして、土曜の夜は中州で一杯飲みながら、またホテルの一室で真剣にあの独特の関西弁で、ときにはきつくてちょっと冗談ぽく、セミナーのこと、カイロのことなどたくさん話し合い、大いに啓発されました。

「治療の醍醐味はアジャスト、スペシフィックなアジャストができなけれはカイロではない」、先生のカイロ治療の根幹はアジャストにありました。そのための工夫に自己の研鑽を費やされていたように思います。

屈託のない先生にも、悩みがありました。自分には政治力も組織力もない。でも自分が思うような教育だけは、自分をかけてやってみたい。その一環としてセミナーもやりたい、自分で大丈夫だろうか。また教育は本来多様で組織の枠組みにとらわれず、もっと自由にありたいという願いでした。

今夏、今日までの数多くのセミナーの実績を踏まえ、単発のセミナーから本来の教育へ移行する試みとして、安藤研究会の開設を決意されました。自分の教育理念に基づいて仲間も集まり、今後に向けてその熱い思いをお聞きし、多いに期待するとともに本会の教育に来年度から取り入れる相談もしていました。今日の九州カイロプラクティック同友会の連帯と発展は、安藤セミナーとともにありました。

私たちは、この会の礎を築いていただいた安藤先生のことを記憶に留めておきたいと思います。そして一人一人の治療のなかに、血となり肉となり永遠に生き続けています。しかし、胸襟を開いてカイロのこと、業界のことなど話し合える仲間を失ってしまったことに淋しさを禁じ得ません。このように振り返ってみますと、約10年のお付き合いでしたが、ずっと昔からの仲の良い友達であったような思いがします。いまはただ心静かに安藤喜夫先生のご冥福をお祈りします。

1989年 安藤クリニックにて

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