カイロプラクターかく語りき
第1回 わたしはだぁれ?
カイロジャーナル85号 (2016.2.18発行)より
かつてのウッディ・アレンの映画のタイトル同様、「誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくい」カイロプラクティックについて書いてみようと思う。ウチに来られる方からよく聞かれるのが「カイロプラクティックって先生によってやることが全然違うから、どこに行ったらいいのかわからない」というものだ。
確かに、カイロプラクティックには様々なテクニックがある。一般の方が気づくということは、よっぽど違うことをされたのだろう。それがアクティベーターのようなカイロプラクティックの学校で教えているテクニックであればいいが、実はカイロプラクティックでも何でもないモノの可能性もある。それでも「カイロプラクティック」の看板を掲げたオフィスの中で行われてしまえば、それがカイロプラクティックだと思われてしまう。これは誤解した側より誤解させた側の方に問題があると言わざるを得ない。
カイロプラクティックはそこそこの知名度こそあれ、その理解度はかなり低いと思われる。特に「整体」「整骨」との違いなど知るどころか、それらが「カイロプラクティック」の和訳だと信じて疑わない人がほとんどではないだろうか。加えて「民間療法」なる表現がある。カイロプラクティックは民間療法にくくられて論ぜられることが多い。民間療法なんてそれこそピンからキリまであるわけで、何かしらの事件・事故の報道によって初めて存在を知るような、中には「怪しい…」と思わざるを得ない療法さえも含まれる。そんなモノと一緒にくくられたところでカイロプラクティックにプラスとなることなど何もない。
やはりカイロプラクティックはカイロプラクティック以外の何物でもないということを強く訴えるしかない。それができるのはカイロプラクターだけだ。カイロプラクターだという自負があるのであれば、少なくともカイロプラクティックに対する理解を歪めるような言動や表記は控えていただきたいものだ。カイロプラクティックを学んでいながら「カイロ整体」や「アメリカ生まれの整体」などとホームページ等で表記するその神経は正直理解に苦しむ。
本来であれば業界団体が率先して対処すべき問題だと思う。ところが、その気配は一向に感じられない。やる気がないのだろう。少なくとも「まとまろう」「まとめよう」という考えは無さそうだ。このあたりを尋ねると、自らのことはさておき他団体の批判に終始する。それは成績を残せない学生の言い訳に近いものがあり、ただただ見苦しい。そんなマネが平気で出来るのも自覚のない証拠だ。
カイロプラクターもバカじゃない。業界団体の無力さにも気づいているし、だから期待もしていない。カイロプラクターとして生き残るべく、個人での試行錯誤が続く。やがてカイロプラクティックの独自性はさらに失われ、カイロプラクターの独自性だけが際立ってくる。結果、いろんなことをするカイロプラクターが増えることとなり、カイロプラクティックに対する誤解はさらに深まっていくだろう。
「自分は何者なのか?」まずは自らに問うことから始めよう。「カイロプラクターである」ならばカイロプラクティックをすればいい。「カイロプラクターではない」のであればしなければいい。簡単な話ではないか。そしてカイロプラクターであることが確認できたら、そこからすべきことは自ずと分かってくるはずだ。もし分からないようだったら改めて問い直してみたらいい。答えは必ず自分の中にある。
最後に私は「自称」カイロプラクターに問うてみたい。
わざわざ「自称」するメリットって、何かね?
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