「イネイト・インテリジェンスとは何か?」第26回
イネイト・インテリジェンスの甦生(11)

(3)散逸構造4-2-1

 散逸構造では、入出力という変動があってこそ、初めて構造が生じ維持される。つまり、動きの中にしか構造は存在しない。先に構造があって、それが作動するのではない。先に盲目的な作動があって、それにより構造が生まれる。一旦構造が形成されれば、作動はその構造の形態によって制限を受ける。制限を受けるということは、その作動に目的(=構造維持=機能)が生まれるということでもある。原初の作動に機能はない。なぜなら、そこには未だ目的と呼べるものが存在していない。しかし、一旦構造が形成されると構造形成と同時に、エネルギーを散逸しながら構造を維持する。つまり、構造形成と同時に機能と呼べるものが生じる。目的を持つ構造形態は、構造維持のための機能を有し機械化する。ここで重要なのは、先に機械構造があってそれが作動する、いわゆる機械論とは根源的に異なるという点である。

 我々は多くこの機械論的誤謬を犯している。機械論的誤謬とは、固定的な構造が先んじてあると考えることである。運動のための神経系・筋骨格系が既に固定的にあり、運動のための構造が、運動自体に関係なく存在していると考えることである。それを念頭において、人体の運動の組み立てを現代医学的に見たとき、既に人体があって「動こう」という意思が、大脳皮質の前頭葉にある運動連合野で形成されると、それが小脳と大脳基底核へ伝えられ、ここで運動のプログラムが立てられる。このプログラムによって、一つひとつの様々な筋肉の動きを予め計画し、どの筋肉をどれだけ動かせばよいか決定する。簡単な動きでも、実際には多くの筋肉の協調が必要なため、このプログラムに沿うことで身体の動きが統合され、運動の目的を達成することができる。小脳と大脳基底核でプログラムされた動きは、視床を通って運動野に戻され、運動野はそのプログラムをもとに、運動神経を介して動かしたい筋肉だけに収縮の指令を出すわけである。
 

 しかし、作動によって初めて構造が生じると考えた場合、先んじてある特定の構造物をプログラムが動かしているのではなく、様々な入力により連続的に構造が生じる。つまり、入力による構造変化という出力の連続が運動になる。同時に、構造変化という出力の連続が入力となる。これらが構造内で統合され、さらなる構造を生じる。この場合、脳神経系も筋骨格系も同列に構造変化が連続する。メインのシステムである脳神経系が、サブシステムである筋骨格系を制御しているのではなく、人間というシステムにおいて、脳神経系も筋骨格系も同じレベルのサブシステムに過ぎないと考えた場合、これらのサブシステム間における入出力の調和と同期が、円滑な運動という秩序を作り出している。これらは、初めから調和しようとしているのではなく、それぞれがそれぞれの作動を行った結果、それぞれの入出力が引き込み現象を起こしているとも考えられる。

 また、運動しないということは動かないという運動をしているわけで、作動が停止することはない。生命活動が終了して、真の作動停止となった途端、生体システムは崩壊を始める。つまり、作動しなければ構造を継続的に維持できない。もし、この入力が外部から受動的に与えられたものだけではなく、生体自身が経験から能動的に作り出しているものでもあるとしたら、生体は外部を細かく認識しなくても動くことができる。

 様々な知覚情報と身体記憶の入力に即して、それに沿った構造状態が出力されることで、構造形成が継続される。その形成継続は、中枢神経からのトップダウンだけによるものではなく、知覚情報からのボトムアップだけによるものでもない。形成された構造状態自体が、状況に応じて、あるいは状況を生み出して、構造状態を出力していく。生体内外の入力に相即な出力による連続的な構造形成は、原因(入力)から結果(出力)が生まれるだけではなく、結果が原因を生じさしめるような関係とも言える。つまり、構造形成自体が構造の連続性を維持し、生じさしめる。

 沸騰する味噌汁に生まれるベーナル・セルのように、入力が構造を形成しても、その構造変化は入力が停止した途端、即座に構造が消え去るわけではない。構造は緩やかに破綻していく。それは余熱による、入力の継続によるものとも考えられるが、入力から生まれる構造の連続で構造が維持されるのであれば、本来の入力がなくなったとしても、出力である構造自体が入力となり、この構造変化の慣性が、構造の連続性を幾許か保つ可能性を否定できない。このように動きの中にのみ「構造=存在」があるとすれば、「存在」自体が「動き」であるといえる。有名なリベットの実験では、実際には「動こう」という意思決定の前に、既に脳内は動く準備をしていると言う。「動きである存在」そのものを見ていないから、こういう矛盾が生じるのではないだろうか?
 

 我々は、我々の行っている治療の内実を、現代の医科学的根拠を持って明確に説明できない。しかし、それはある事象があり、その事象の説明が論理的にできない場合、それは事象がないということではなく、その論理では証明不能ということであり、論理体系自体に不備があると考える方が妥当であろう。その意味では、ある方法論で再現性がある治療が行われるのであれば、その方法論に対してエビデンスという医科学的根拠が提出できないからと言って、否定するのは浅薄である。ましてや現代医学の方法論で、それを書き直すことは、瑕疵のある論理体系で羊頭狗肉化するようなものであり、愚かなことだとしか言えない。
 

 フランスの哲学者ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが提唱した現代哲学の概念に、「器官なき身体」という言葉がある。これに対する概念は「欲望する機械」というものである。「欲望する機械」とは、人間の身体や社会システムなど、世の中に存在するものはすべて「機械」にすぎず、それらは常に目的を果たそうとする「欲望」によって動き、多様な差異を生み出しながら変化し続けるものを言う。

 これに対して「器官なき身体」とは、人体を社会に例えれば、各器官は様々な社会組織のようなもので、「欲望する機械」のように常に目的を果たそうとするが、人間自体や社会自体は、潜在的にあるそういうものに縛られない本来の個としての自由を有するというようなものである。これは非常に難解な思想であり、芸術やエロスとの関連が深く、ある種の理想像のようにも見える。また、ある意味、どうでもいいとも言える。

 ただ散逸構造の立場から考えれば、そもそも人体に限らず、入出力を伴って維持されるすべてのシステムは「器官なき身体」と言える。入出力を伴うシステムは、構造を生じ、同時に機能する。そこには器官が生まれるが、それは常に変化し変貌するものであり、固定的なものではない。上位のシステムである人間自身は、下位のシステムである各器官系の作動を基盤としているが、下位のシステムである各器官を維持するために、上位のシステムが存在するわけではない。上位のシステムは下位のシステムに縛られることなく、上位のシステムとして作動しており、我々は通常、下位のシステムである各器官が動作不良を起こさない限り、意識することはない。つまり、我々にとっての身体性とは、複数の器官の集合体ではなく、一塊の不可分な存在であると言える。また、下位のシステムも上位のシステムの振る舞いとは関係なく作動し続ける。

 こう考えると、サブシステムである各器官系を個別に取り出すような還元主義的考察だけでは、人体というシステムを理解できない。人体というシステム全体における考察が必要になる。そういう意味では、構造と機能は表裏一体で相即なものである。つまりは、構造と機能という区分は、同じものを違う視点で見ることにより生まれるに過ぎない。構造は、形成されると同時に散逸する。つまり、仏教における刹那滅のごとく、その構造が瞬間に生まれては滅している。常に変化しながら、構造が維持されるということは、構造形成と同時に機能が生成されるということである。

 機能とは、構造の瞬間的な生滅の連続態であり、そこに変化を持つ構造維持が生まれる。構造や機能を俯瞰的に見たとき、生命というシステムが作動することで機能が構造を生み、構造が機能を生じさしめるわけで、構造も機能も互いが互いを制限し合う関係になり、これは下位のシステムである各器官においても、上位のシステムである人間自体おいても、同様の関係性を持つ。しかしながら、これらのシステム作動は、構造や機能を形成するために作動しているわけではない。本来、盲目的で無目的な作動が、エネルギーを散逸していく結果として、構造と機能を形成してしまう。システムが停止するまで同様に振る舞うとすれば、作動することなくして構造も機能も維持されない。これをさらに踏み込めば、下位のシステムと上位のシステムという区分自体も破棄されなければならない。我々が上位のシステムと見ている人体自体にとって、人体は上位も下位もない唯一無二のものであり、まさに「器官なき身体」といえる。

 人間というシステムにとって、システム自体は細分化されえない単独固有のシステムでしかない。下位のシステムも上位のシステムと関係なく、それぞれのシステムにおいて自己完結していると考えた場合、下位のシステム群はそれぞれの作動をしているだけであり、それらが調和し同期するのは、まさに引き込み現象のような「創発」的な振る舞いの結果であり、システム全体として自己組織化しているとしかいえない。これは、何ら構造も機能も持たない何ものでもない受精卵が、細胞分裂により、分化という作動を繰り返すことで、構造と機能を持つ生体を形作ることと矛盾しない。
 

 我々は、外形的に既に存在している人体における筋の状態や、椎骨の動きなどを観ているわけであるが、それらは生命活動があってこそ存在しているし、我々が観ることに意味がある。換言すれば、常に入出力を行うことで初めて存在する散逸構造としての人体を観ており、変化しない物体に対して介入しているわけではない。イネイト・インテリジェンスのない死体に対してアジャストメントを行っても何も起こらない。イネイト・インテリジェンスがあって、初めてアジャストメントはサブラクセイションを取り除くための手段となり得る。人体には、イネイト・インテリジェンスという固有の構造や機能があるわけではない。構造と機能を持つ人体システム全体の作動自体が、イネイト・インテリジェンスであり、散逸構造におけるエネルギーの散逸そのものが、イネイト・インテリジェンスであると言える。また、引き込み現象のような「創発」的な自己組織化も、人体というシステムを統括するイネイト・インテリジェンスの働きと言えよう。イネイト・インテリジェンスとは、システムがシステムであり続けようとする盲目的な生存意志であり、刹那生滅のごとく、我々を日々新たに作り出しているものと言えるのではないかと思う。
 


木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC)で長年、理事、副会長兼事務局長を務める
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 理事

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