『科学新聞社プレゼンツ 10月イベント』
その9 神経学を学び続ける 丸山正好氏
今回のスピーカーの中に、もう一人「呼び捨てで」という男がいる。丸山である。先に紹介した辻本は、講師紹介で先生、さんと呼んでも、それはそれと軽く流してくれるが、丸山は即座に「やめてくださいよ、いつも通りに呼んでくださいよ」と言葉を挟んでくる。お陰で「あれっ、これから何を話そうとしてたんだっけな?」と忘れてしまうことがある。「そんなときぐらい黙って流せよ」と言いたいところだが、これまでの付き合いから、先生、さんと呼ばれるとどうも体がムズムズしてくるらしい。
1998年に「カイロプラクティック総合講座」というタイトルで、実技優先ではなくゼミ形式の勉強会をスタートさせた。その第1弾が、静岡の増田裕氏による「増田ゼミ:文献を読みながら考える」であった。彼は30代半ばに一念発起して、カイロプラクターになるべく某養成校に通い、セミナーに出て学んでいた。しかし、どの講師に疑問をぶつけても、期待する明確な答えは返ってこなかった。そんなとき、仲間から「一緒に行かない?」誘われ、「どうせ、また」と思いながら「増田ゼミ」に参加してきた。そこで持っていた疑問をぶつけた。すると増田氏はしばらく考え込んだあと、ホワイトボードにびっしり数式のようなものを書き上げて、「これわかる?」と聞いてきた。「さぁ?」と答えると、「じゃあ、これから一緒に勉強していこう」と言われ、「今までとは違う」とすっかり増田氏に惚れこんでしまった。
質問にはほとんど即答だったが、わからないことがあると「次回まで調べてきます」と言って、次の回に「そこまでは」と言いたくなるほど、とんでもない量の答えが返ってきた。ここで丸山は増田氏をメンターとして「一生ついていきます」となった。丸山だけでなく当時参加していたメンバー(若林、小田桐、松井ら)は「増田組」と名乗り、増田氏が99年に第1回の日本カイロプラクティック徒手医学会でワークショップを受け持ったときなど、自発的にスタッフとして働いていた。ゼミのあとは必ずと言っていいほど会場で飲み会となり、丸山は若林とコンビでよく下ネタを飛ばしていた。そうすると増田氏から「君らはそれしかないのか!」と呆れられていた。二人ともお互いを悪者にしながら、「それしかありませ~ん」と開き直っていた。
そうして1、2年過ぎた頃、増田氏が「DACNB(当時はキャリック神経学と言われていた、その学位)の取得を目指すので、みんな1年付き合ってくれ」と頭を下げ、先生が目指すものなら喜んでと、文光堂の「神経局在診断」をテキストに始まった。増田氏は見事、日本人第1号のDNCNB取得者となり、その後の神経学ブームの先駆けとなった。学位取得者となった増田氏は、キャリック主催の300時間コースを受け持つことになった。当然、丸山も受講したかったが、受講条件をクリアしていなかったため受講することができなかった。だが、私はこれが丸山には幸いしたと思っている。このコースを受けていたら、こうはなっていなかったろうと思う。結果、受講できる勉強会や独学で、コツコツ、コツコツと学び続け、それが今の丸山の確固たる地盤となっている。10数年経ち、やっとというところまで来たときに、「たたき上げの講師」として当社主催で勉強会を始めた。教えることでさらに勉強が進み、現在に至っている。
なんだか、丸山の紹介をしているのか、増田氏の紹介をしているのか、わからなくなってしまったが、丸山を語るとき増田氏を抜きにしては語れない。増田氏の真面目に行動しているのに、なんとなく頓着のなさから醸し出される茶目っ気に、大笑いしたこともしばしば、その人物評は丸山に譲るとして、丸山は当時かなり飲んでいたが、今は飲まない。だが、それなりに人に知られたくないエピソードもないわけではない。「機会があれば、そのうち」と言いたいところだが、それは止めておこう。現在の丸山の名声に傷がつくようなことは、私にはできない?
斎藤 信次
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