「イネイト・インテリジェンスとは何か?」
第24回 本論休題

 なぜイネイト・インテリジェンスにこだわるのか、と言えば、それが唯一カイロプラクティックをカイロプラクティックたらしめる本質だからである。つまり、現代医学とは異なる人体概念で治療に当たるということである。

 現代医学で人体のすべての問題が解決しないのであれば、異なる概念の治療体系が存在することには十分な意義がある。しかしながら、カイロプラクティックの施術が、現代医学と同じ人体概念で行われるのであれば、それは理学療法でしかない。ならば、カイロプラクティックを名乗る必要は全くない。
 

 1999年に出版された「統計別・治療手技の展開」という理学療法士たちによる理学療法士向けの手技療法紹介書籍がある。既に改訂第3版となっている。 

 現在、この書籍は多くのPTの学校で教科書として採用されているが、初版では筋膜リリース、カウンターストレイン、マッスルエナジー、頭蓋仙骨療法、体性感情解放、内臓マニピュレーションなどのオステオパシー手技があった。現版でも頭蓋仙骨療法、体性感情解放、筋膜マニピュレーション、ゼロバランスなどが含まれている。これを学校で習う生徒たちは、これらの手技はもともと理学療法であると刷り込まれ、そういうパラダイムになる。

 そもそも運動させるだけしかなかった理学療法は、トーマス・クーンの言った「パラダイムシフト」を行ったと言える。「筋膜リリース」は東洋の刮痧療法と同質であり、アメリカではオステオパシー、カイロプラクティック、ロルフィングなどで使われてきた手技であるが、PTがそれを論文としてまとめたことにより、それまで体系化されていなかった手技を(言語的に)体系化したとして、現在では立派な理学療法となっている。

 また医師においても、癒着した筋膜を剥がすとして超音波画像診断装置により、直接筋膜間に生理食塩水を注射する筋膜リリース治療を行ったりしている。この手技はわれわれの概念からすれば、実に雑なものであるが、ある程度の訓練を受けて行えば、誰でもできるという極めて再現性の高いものであり、科学とはこういう雑な再現性を好む。
 

 また、カイロプラクティックにおける「機能神経学」などは、そもそも脳神経疾患の症状を薄めた状態で、その脳神経疾患に対応する脳脊髄神経系に対してアプローチしているといっても良いであろう。

 つまり、根底にあるのは現代医学概念である。しかしながら、同じ肉体が存在しないように、同じ脳も存在しない。脳は極めて可塑性が高いので、患者の状態や施術手法を論理化したところで、どこまでそれが一般化でき、各患者において適合するのかわからない。脳というものは科学的な認識において、本質的にはブラックボックスである。

 その意味では現代医学から見れば、現代医学以外の者が脳について語る場合、ほぼほぼ似非科学と捉えていると言っても過言ではない。また現在、学校もほとんどなく、学会も既にない日本のカイロプラクティック界においては、神経学の体系的な基礎教育すらも難しい。その意味ではきちんとした教育を受け、大学もあり、国家資格を有するPTが、「機能神経学」の技術を論文化して自前のものにしても、現在の日本カイロプラクティック界は全く反論できないと言える。
 

 日本のカイロプラクティックの危機的状況はさておき、カイロプラクティックの人体概念について考えてみよう。概念は言葉で表されるが、言葉というものは不思議なものである。「イネイト・インテリジェンス」と言えば、なんだかわからない怪しげな似非科学のように思える。つまり、いきなりバイアスがかかる。しかし自然治癒力と言えば、医学で使われており、なんだか科学的だからと逆のバイアスがかかって盲信し、その本質が全くわからないのに、わかった気になる。

 自然治癒力とは、「何もしなくても病気やケガを治してくれる能力である」とした場合、同じことを言い換えただけの循環定義でしかない。「独身者とは独り者である」と言っているのと同じである。

 自然治癒力とは、「生物が傷ついたときに修復・再生し、また外部から病原体などが侵入したときに、それを排除する、生まれながらに持っている能力である」とした場合でも、先の定義を説明的に言っているに過ぎず、それが何によって生じているかを特定しない以上、他との区別化が明確ではなく、定義として十分ではない。また東洋医学における「気」なども、なんだかよくわからないが長年使われてきた言葉には、親和性があり、なんとなくわかったような気がする。

 ライプニッツが、物体の運動状態を表す言葉として使った「エネルギー」などもそうである。エネルギーは「仕事をすることのできる能力」であるが、何が仕事をさせているのかという本体は不明であり、エネルギー全般に当てはまる日本語はない。われわれの基本的な認識とは、その程度である。
 

 エネルギーと同様に、システムという言葉も何にでも使われている。システムの定義については以前にも述べた。システムは日本語では「系」であり、太陽系はSolar Systemであり、物流系はlogistic system、神経系はnervous system、循環器系はcirculatory systemであるが、人体システム human body systemと言えば、神経系や循環器系、消化器系、筋骨格系などの構造と機能が統合されたものであり、科学的と思える。しかし、単に人間システム human systemと言った途端、なんだか胡散臭く思える。

 環境や経済等に配慮した活動を行うための、サステナビリティ学というものの中に、「ライフスタイルや価値規範」を含む、「人間自身の生存を規定する諸要素の総体」を指し、「健康・安全・安心・生きがいを保証するための基盤」であるとされる「人間システム」(東洋大学学術情報リポジトリから引用)というものがあったりするが、これは「個人システム」と言った方が良いように思う。

 「イネイト・インテリジェンス」を「人間システム」と言った場合、精神や心と肉体を一つのシステムとして捉えたものと言えよう。つまりは、「全人的システム holistic system ホリスティック・システム」である。ホリスティック(holistic)という言葉は、ギリシャ語で「全体性」を意味する「ホロス(holos)」を語源としている。 そこから派生した言葉には、whole(全体)、heal(癒す)、health(健康)、holy(聖なる)などがある。

 実のところ、システム自体には機能も構造もない。システムを還元的に解釈したとき、機能や構造が浮かび上がるが、システム論で述べたように、還元したものを組み立てても元のシステムにはならない。例えば、筋肉は収縮という機能を持っているが、収縮する能力のあるものを骨格に貼り付けただけでは、人間のように運動はできない。システムは作動しなければ、システムたり得ない。作動のための情報が必要であり、情報によるシステムの制御が必要である。
 

 元来カイロプラクティックは、現代医学と同様に人体を機械論的に見ている。神経圧迫説が良い例である。配線が圧迫されて、エネルギーの通りが悪くなるという考え方であり、機械と同じでデカルト的である。しかし、そのエネルギーという考え方は生気論的であり、これもまたデカルト的である。

 イネイト・インテリジェンスが、人体という一種の機械を未知のエネルギーで作動させ、その作動は生まれつき持っている知性が統括しているというのであれば、二元論的な考え方である。

 一元論とした場合、イネイト・インテリジェンスも、サブラクセイションも、人体そのものも同じものだということになる。多元論であれば、サブラクセイションを含め様々な人体の状態が、イネイト・インテリジェンスであるとも言える。一元論と多元論は、その意味では同質である。これはいわゆる「心身問題」に近くなるので、いずれ稿を改めて論じたいと思う。
 

 さて、BJはイネイト・インテリジェンスのエネルギーが脳から出ていると考え、脊柱の特異点とも言える上部頚椎=環椎・軸椎にのみ、真なるサブラクセイションが生じるとしたが、これも機械論的な考察である。

 また、皮膚温の変化で神経支配の異常を検出しようとしたわけであるが、まともな科学的思考の持ち主なら、これを盲信することはできない。ナーボ・スコープやタイトロン(TyTron)などでの皮膚温検出は、その一般的再現性に不安があり、またサブラクセイションとの関連性において、どのような関係性があるのか明確ではないし、その根拠も信頼するに足り得ない。

 しかるに、これらは機械論的な考え方から導出されていると言えるであろう。レントゲン分析も同様に、サブラクセイションとの関係性に対する信頼性の欠如が指摘されうる。

 日本のカイロプラクティックにおけるサブラクセイション検出方法は、筋力検査や姿勢分析などもあるが、主に触診である。カイロプラクティックでは、椎体の位置異常はリスティングとして表記され、そのリスティングによってアジャストメントが決まる。椎体の位置ということは、座標で表され、物理的な状態量と言える。

 このとき、リスティングは静的触診、動的触診によって同定されるが、科学的な意味合いでの再現性が低い。なぜなのかと言えば、例えば椎間関節の動きの低下を見るとして、これが基準点を定めた座標による物理的な数量であれば、誰が見ても同じはずで、再現性は高いはずである。

 実際はそうではないのであれば、考えられることは基準点が各人によって変動しやすいためか、あるいは椎間関節の動きの低下を数量として見ているだけではない、ということになる。基準点は、術者と患者の関係性で、精神状態や固有受容器の変動による微妙な筋緊張の変化によって変わる可能性がある。この場合、リスティングは術者によって異なると考えられるが、異なるアジャストメントによって起こる変化に違いが生じるかどうかはわからない。

 なぜか? リスティングという考え方自体が、実は後づけでアジャストメントの説明のために便宜的に作られたものであるとすれば、それはアジャストメントの対象を真に表しているかどうかわからない。

 われわれが脊柱の触診で、なんらかの質的状態を捉えているとすれば、それは単純に椎体の位置を数値化する物理量とは言えず、その質感には個人差が生じる。質感というものは、論理化して単純化するほど例外が増加してしまうが、感覚として端的に捉えることは可能である。質感としては、軟らかさに対する硬さなのか、緩さに対する固さなのか、軽やかさに対する重さなのか、明るさに対する暗さなのか、各人によって異なる観じ方があるであろう。

 しかし、ソムリエのように大きな間違いが生まれないとすれば、本質的に見ているものが同じだからである。違うものを見ていれば、似て非なるものとなる。この場合、カイロプラクターがアジャストメントしているものは、椎間関節や椎体であるとは言えなくなる。質感で見ているものは、一つの脊椎骨ではなく、人体という全体性の中の一部分である。

 例えば、フィクセイションとサブラクセイションの違いが、全人的システムの作動の自由度を、本質的に阻害しているかどうかということであるとすれば、その違いは量的なものではなく、質的なものとなる。どのように質的なのかと言うと、カオスのところで述べた「有界内における非周期軌道」が、固定された周期軌道になってしまうことによって生じる質の違いだと言うこともできる。

 これは自由度の低下であり、多様な入出力によって生まれる散逸構造の維持が固着的になることで、外部の変化に追従しにくくなり、なんらかの問題を生じやすくなる可能性を示唆できる。
 

 このように、フィクセイションとサブラクセイションの違いは、イネイト・インテリジェンスの発現を阻害しているか否かであるが、言葉にこだわるのは愚かなことである。こだわるべきは、言葉そのものではなく、言葉が指し示す本質にある。かつて、「燃えよドラゴン」の中で、ブルース・リーはこのように言った

「Don’t Think. Feeeeeeeeeel!」 (「考えるな、感じろ!」)
「It’s like a finger pointing away to the moon. Don’t concentrate on the finger, or you will miss all the heavenly glory」 (「それは月を指差す指のようなものだ。指に集中していてはいけない、それでは天来の栄光をすべて見逃してしまうだろう」)
 

 「イネイト・インテリジェンス」も「サブラクセイション」も、DDの「トーン」やBJの「フォース」も、月を指差す指でしかない。これらの言葉に囚われて、「イネイト・インテリジェンス」や「サブラクセイション」、「トーン」や「フォース」という言葉を使っているだけでは、何もわからない。

 これらの言葉が指し示すものを、感得しなければならない。そこに「イネイト・インテリジェンスの本体」がある。それを感じ取らなければならない。「イネイト・インテリジェンス」も「ユニバーサル・インテリジェンス」も言葉でしかなければ、それは指し示す指でしかない。
 


木村 功(きむら・いさお)

・カイロプラクティック オフィス グラヴィタ 院長
・柔道整復師
・シオカワスクール オブ カイロプラクティック卒(6期生)
・一般社団法人 日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC) 副会長兼事務局長
・マニュアルメディスン研究会 会員
・カイロプラクティック制度化推進会議 会員

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